11/10/9礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書21:20-28、ヨブ記19章25-27節 「心を高く上げよ」

11/10/9礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書21:20-28、ヨブ記19章25-27節
「心を高く上げよ」

身を起こして頭を高く上げなさい、とイエス様が言ってくださった。凛とした姿勢。折れてない姿勢とも言えるでしょうか。私が思ったのはマラソンランナーの、最後のゴールの姿勢です。苦しみが最高潮に達しているときであろうはずなのに、これでゴールだ!と、頭を高く上げてゴールする。しかも、こう想像して下さったらと思います。ゴールする一人一人が、他人と比べることも無く、自分のベストを尽くして走り、つまずくこともあったけど、それも含めてベストでしょう。止まってしまったこともある。もうこれ以上走れないとも思ったけれど、目に見えない主の励ましに支えられ、共に走る教会の家族に支えられ、一歩一歩ゴールに近づき、まだゴール自体は見えてなくても、けれどこのことを知っている。この先にゴールのテープが、一人一人に張られておって、キリストがご自身で張ってくださったテープがあって、皆、キリストの胸に飛び込んでいってテープを切れる。そのゴールの幻を見るときに、キリストに迎えられてテープを切れるキリスト者のゴールを思うとき、頭を上げることができる。床に身を横たえたままであってもです。明日四国障害者キリスト伝道会の修養会で道後に行きますが、ずっと一緒に行っていた西山兄が今年は行けなくなりました。いつもストレッチャーの車椅子に寝て礼拝を守っておられる兄弟の姿を皆さんもご存知ではないかと思います。首の具合が悪くなり、うつ伏せにもなれなくなった。その苦しみは私の想像を絶します。でも兄弟は、起こせない体を凛と起こして、頭を高く上げている。その姿勢を私はいつも見させて頂いて、共にキリストを見上げる幸いを得させて頂き、一緒にゴールに向かえるのです。身を横たえておっても身を起こし、頭を高く上げながら、やがて栄光の雲に包まれて来られる人の子、人となられた救い主キリストを見上げて、寝ながら走っていけるのです。先に賛美したように、心を高く上げることができる。それは必ずしも、気分の高揚を意味しません。心が悲しみに沈んでおっても、祈りの内にキリストに顔を向け、主よ、この悲しみの心をお受けくださいと、心を高く上げられるのです。立ち上がることのできない悲しい我が身を、どうぞあなたが起こして下さいと、キリストの名を呼んで立つことができる。神様の前に立つのです。それ以外、どこに立つことができるでしょう。
イエス様は、エルサレムも倒れるとおっしゃいました。主なる神様を礼拝するはずのエルサレム神殿も、粉々に崩されて倒されて、立ち上がれない。そればかりか、イエス様が、倒れるとおっしゃるのに、言わば迷信に惑わされて、いいや、神の都エルサレムなら大丈夫だろうとか、神殿の中におったら大丈夫だろうと、御言葉でなく、自分の勝手な信仰を信じ込んで、そして倒れていく者たちもおると言われる。事実、西暦70年、城壁を打ち破って雪崩れ込んだローマ軍によって、エルサレムは倒れ滅亡します。イエス様がここでおっしゃった40年後に、そのことが起こった。人間の勝手な信仰に惑わされてはならないとイエス様が必死におっしゃってくださったのに、自分を信じたら倒れるのです。
それは、世界の終りについても同じことである、と主は言われます。神様が、神の民として、ご自分で選ばれたユダヤ民族に対して、あなたがたは、自分たちは特別だと思い高ぶり、わたしの言葉に聴き従わず、自分を信じて他人を裁くのなら、わたしがあなたを裁き、報復すると、彼らに怒りを注がれた。ならばどうして神様を信じない世界が、同様に怒りの対象にならないか、どうして自分たちは裁かれないし、この世界が終わることなどはないのだと、自分を信じられるのかと、イエス様は世界の裁きを告げられるのです。
世の終り、世界の裁きと言っても、漠とした恐怖心が起こるだけで、逆に、それを打ち消そうと、人間は何か安心を得るために、心理的操作をするのかもしれません。しかし、世界とは何でしょうか。どんな世界が倒れるのか。イエス様が用いられた言葉は、直訳すると、住んでいるところ、住んでいる世界、まさに私たちが生活を営んでいる、その足場そのものという言葉です。今日も昨日と同じような世界なんだろうなあと、根拠はないけど思っている世界。でも、きっと昨日と同じだろうと昨日と同じような生活を今日も続けて、本当は不安定な足場なんだけど揺るぎない足場のように考えて、いや考えもしないで、あれもしよう、これもしようと思っているけど、そこで神様の前に立って、あれをします、これをしますとは考えてない。神様の前に立ってないまま、それが普通だと過ごし続ける不安定な足場。その足場は、エルサレムと同じように、ガラガラと崩壊する。そのとき人々は、この足場、この世界に、何が起こるのかと怯え、恐ろしさのあまり気を失いさえする人もいる。そのような世界に住んでおったら、神様の前に立ってない足場、自分で安心だと思っているだけの足場に生きておったら、どんなに自分の心に言い聞かせて、安心だ安心だと思っておっても、その世界は決して安全ではないのだと主は言われます。決して揺り動かされない足場は、神様の前にしかないからです。たとえ死を前にしてもです。それを滅びとは思わんからです。それが終りだとは思わんからです。それは終りではなくて、ゴールです。キリストがテープを張って、そこに立っていてくださるゴールです。ゴールは終りではありません。その先に、栄光があるのがゴールです。解放があるのがゴールだとも言える。イエス様がここでおっしゃっている解放というのは、単に死んだら苦しみから解放されてお星様になれるというのではありません。キリストと同じように復活を迎えられるから解放なのです。苦しみから解放されて、その先に永遠の喜びがある。永遠の静けさではありません。にぎやかな賛美です。嬉しいという喜びの歓喜です。イエス様、私はテープを切れました、全部イエス様のおかげですという、ずいぶんにぎやかで晴れ晴れしい喜びの永遠に突入するのが、キリストが迎え入れてくださるゴールなのです。ゴールのテープを切るときは、倒れこむようにしてであったとしても、テープを切ったら復活です。生まれてこの方、ずっと寝たきりであった兄弟姉妹も、テープを切ったら立ち上がるのです。キリストが、我が子よ立ち上がれ、あなたの罪は赦されたと、神様の前に立ち得る者としてくださって、三日目に死者の中から立ち上がられて、この復活は、あなたに与える復活だから、起きよ、神の子よ、神様の前に立ち上がれと、キリストが立ち上がらせてくださる。だからゴールを目前にして、頭を上げることができるのです。今は起こせない身をも起こして、神様の前に立つのです。神様が、あなたはわたしの前に立てと言ってくださる。心を高く上げましょう。キリストが私たちを立たせてくださる。
自分は情けない信仰者だと、うなだれる心であったとしても、ならばこそキリストの名を呼ぶのです。実際に頭を上げられるなら、顔を上げて祈ったらよいでしょう。イエス様、憐れんで下さいと、うなだれるのでなく、むしろキリストのお顔を見上げたらよい。主よ、見上げても、清くない私は、あなたを見ることができません、それでもあなたに顔を向けますと、一人で祈ったら良いのです。主が、あなたは一人、密室で祈りなさいとおっしゃったのは、それを人前でやってると、変だからかもしれません。なら、一人で主の前に立てばよい。キリストを下さった父は、その私たちをこそ喜ばれます。父は、子の顔を見たいのです。
信じておっても色々あります。足場が揺るぐ。でもそこで、キリストに立つことができるのが、父が下さった救いです。揺らいでも揺るがん信仰に立てる。教会はここに立ち、世界にキリストを伝えるのです。

11/10/2礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書21:5-19、ダニエル書12章1-3節 「命の法廷に立つ証人」

11/10/2礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書21:5-19、ダニエル書12章1-3節
「命の法廷に立つ証人」

二週続けて、うわべに惑わされやすい心の弱さに気をつけなさいと、イエス様がおっしゃってくださった御言葉を聴いてきました。今読みました御言葉も、その続きであると言えるでしょうか。やっぱり人々が、見とれておりました。何にか。立派なエルサレム神殿にです。ユダヤ人の自慢でもあったと言われています。神殿の中身たる、礼拝が捧げられるべき神様よりも、目に見える外側に、やっぱ見事やねえと見とれてしまう。それは、相当に危ないと。その決定的理由をイエス様は言われました。あれは全く残らない。人々が見事だと言っている、その石の一つさえ、崩されずに残ることは決してない。だから崩れて残らないものでなく、永遠に残るものにこそ、目をとめるべきではないか。でないと、あなたの命そのものも、一緒に崩れてしまいはせんか。神殿なんてのは残りはせん。なら何が残るか。あなたの命ではないのかと、私たち一人一人に命をくださった、命の主ご自身が問われるのです。
ただその命は、自動的に残るというのではないと言われます。忍耐によって、命を勝ち取りなさいと、訳されて言われます。勝ち取ると訳されると、どうも、宗教熱心であれば、その功績が認められて永遠の命をも獲得できるようなイメージがあるかもしれません。しかし何度も繰り返し言いますが、自分の力で命を勝ち取った赤ちゃん、新生児が、一人もおらんように、永遠の命も、ただ神様の愛によって受けるものです。自分の力で勝ち取れるような命や救いの神がおるなら、そしてそれをも父と呼ぶのなら、何と偏った、実力主義で功績主義の、偏差値に支配された悪魔的な父でしょう。それは世界を造られた神様ではありません。世界の父は、人となられた御子キリストによって世界の罪を赦されて、どんな人でも家に帰ることができるよう、道となられたキリストの父、十字架の父です。その十字架の赦しの道、恵みと憐れみと正義の道に、父よ、私も帰らせて下さい、私の罪を赦して下さいと、祈って、両手を差し出す我が子が、どうして命を得ないでしょう。父が、その手に命を下さるから、得るのです。勝ち取ると訳すよりは、むしろ手に入れる。勝つというのであるのなら、この父から頂いた永遠の命、神様の子供として受けた命を、損なわせようとする誘惑に勝つということでしょう。罪とか赦しとか、そんな神を信じるがは止めと誘惑し迫害して、もっと自分の力を信じろと迫ってくる害、つまり迫害と誘惑に勝って、いや、この命はいただいた命やき、だって、命ってそうやか、あなたの命も、そうでしょうと、永遠の命の中身、命の主である神様の、証人となって生きて行くのだと、イエス様はおっしゃっているのです。
だけれども、うわべに捕えられ、心鈍くなり、どうしても神様と命を結び付けて考えられない私たちを代表するように、え、この見事な神殿が崩れるって、そりゃもう世の終りが来るのじゃないですか、その徴、サインは、どんなサインを見ればよいのですかと、やっぱり、見ることに捕らわれている。で、改めてイエス様が言われる。惑わされないように気をつけなさい。これが世の終りの徴ではないかと本当に色々、やれ救世主だ、やれ世の終りだ戦争だと、たくさん目に見えてくるけれど、それはいつの世にでもあることで、そんなのは徴ではないから惑わされるな、罪多き世界のうわべに、惑わされるなと注意をなさいます。
うわべだけ。中身は、違う。それが惑わしですけれど、神殿の崩壊であろうと、エルサレムの滅びであろうと、やがて来る世界の滅びであろうとも、そこで人々に訪れる崩壊の中身、死の内実を悟らなかったら、いつ人は悔い改めて神様と出会うのか。死とは、私たちの命を造られた神様の前に立って、死んだと思ったら目が覚めて、終わったと思ったら永遠の神様が目の前におられて、あなたはどんな命を生きたか、どんな命の中身を生きたかと問われる。自分がこだわったうわべは問われず、まったく問題にされることなく、うわべの全てが崩れ落ち、はがれて、露にされて、中身こそ白昼にさらされて、あなたは人々を実際に愛する愛に生きたか、正義に生きたか、この最も小さき者の一人にあなたは何をしたかと神様に問われる。そこでどんな中身が残るか。そこに一人の人間の真実があるのです。そして、そこにキリストが共に立ってくださっている。そのキリストの赦しを信じる。そこに私たちの信仰の内実があるのです。だから立ち上がって生きていくことができる。
なのに人間は死の内実を見損ねて、滅びのうわべに惑わされ、そこで神様に向き合わず、何とか死を克服しようと、うわべで頑張ってしまう結果か、滅びを前にして、欲望が露にされるのです。俺が救い主だと、己を神にしたい欲望がごそっと現れる。方や、露骨な戦争を引きおこし自分の正しさや力を誇示して、自分の欲しいものを文字通り勝ち取ろうと、人々を自分の欲望に巻き込む。あるいは、自分を守るための正しい自己防衛であるのだと、魔女狩り、ホロコースト、ルワンダやコソボで遂行された民族浄化という名の虐殺。日本でも、外国人迫害に対しては言うまでもなく、日本の国を守るのだからと天皇崇拝を強制し、今でも例えば大阪府知事や都知事は、中身を問うなら同じことをしているという自覚が、きっとあるのではないかと思わざるをえません。結局、人間の自己保身、自己満足、自己中心が露出して、罪の本性が露にされる。神様よりも、人よりも、自分を満たそうと命が歪み、心が歪む。
自分を勝ち取ろうと罪が勝ち誇る世界の真ん中で、どうしてキリスト者が黙っていることができるでしょうか。大きなことはできなくっても愛の業をせざるを得んでしょう。キリストの愛を何とか伝えなくてはと祈り、キリスト者として生きるでしょう。たとえ迫害を受けてもです。この葛藤を知らないキリスト者はおらんと思います。仮に負け続けておったとしても、愛の葛藤がある。私たちの内に住まわれるキリストの霊と、キリストの愛によって、居たたまれない思いにならざるを得ない。そして、キリストの名の故に、その十字架の主の名の故に、俺が私がの渦巻く人間の罪の法廷の真ん中に連れて行かれることもある。大変恥ずかしい話でありますけれど、日本基督教団では、この迫害が教団総会や教区総会の議場でも露になった歴史があります。ある牧師は、当時総会の主導権を勝ち取っていた人々から四面楚歌の集中砲火を受けて、牧師になることが一年間できなかった。そして、次の教区総会を迎えた時、そうだ、この人々に勝とうとするのではなく、この人々に十字架の福音を伝えよう、キリストの愛でこの人々を愛そうと、自分はどうなってもかまんからと、まっすぐにキリストの愛をもって彼らに心から語りかけたら、前回紛糾して会議にならなかったほどの議場から、この人は牧師になるべきだと拍手を受けて、それで牧師になれたと聴きました。
主がここで約束してくださった、誰も反対できない言葉と知恵とは、十字架の言葉と知恵以外に何があるでしょうか。自分を捨てて、この人をお救いくださいと命を投げ出して、罪を赦す。その憐れみの言葉以外で、どうしてキリストを証することができるでしょうか。キリストは、ご自分の僕が迫害を受ける時をさえ、それは罪に惑わされている人々に救いを語りかける機会となると言われます。それはチャンスだ、そうだろうと言われる。皆が皆、はい、そうですとは言えんかもしれません。イエス様も十字架を前にして苦しまれたのです。苦しまんはずがないのです。忍耐のない愛があるのでしょうか。愛故に私たちが悶え苦しんで祈る、その中に十字架のキリストが立たれるのです。神様の栄光が現され、赦しの愛が輝くのです。人は私たちの自由を奪い、命さえ奪うかも知れません。けれど、それは私たちの命のうわべで、そこに中身はないのです。私たちに与えられた命の真実、永遠の命は、誰も私たちから奪えません。
御言葉を二つお読みいたします。コロサイの信徒への手紙3章1-4節。「さて、…栄光に包まれて現れるでしょう。」
もう一つ、ローマの信徒への手紙8章31節以下。
「では、…引き離すことはできないのです。」
キリストの愛と命を、誰も私たちから奪い取ることはできんのです。なおキリストはそこで自分を勝ち取ろうとする人々に、ご自分の命を差し出され、ここにあなたの命があると、赦しと聖霊様をお与えになられる。人にはできないことも、神様にはおできになる。そのキリストを証するのです。キリストが救いの御業を行われます。私たちに求められているのは、キリストを、その人に差し出すことであるのです。

11/9/25朝長寿祝福礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書21:1-4、列王記上17章8-16節 「いのちを知る人」

11/9/25朝長寿祝福礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書21:1-4、列王記上17章8-16節
「いのちを知る人」

長寿の祝福を今年は少し遅れた日程で致しておりますが、無論、行事として行ってしまえば、後の364日は祝福とは縁がない、また来年と、まさかそんな安っぽい祝福ではありません。神様の祝福はいつもあります。ただ人間は、どうもそのことを、あるいは知っておっても忘れてしもうて、祝福に生き損ねてしまうのかもしれません。例えば家族に祝福されるのは、まさか誕生日だけではないでしょう。が、家族全体がそのことを忘れ、家族がそこにあるという祝福に生き損ねてしまうことも、悲しいことに少なくない。教会が礼拝ごとに祝福をする。また教会は、神の家族なのだと、神様が言って下さっている。ここに祝福があるのだと、ここに来て、この家族の祝福を中心にして、あなたに毎日を生きてほしいと、私たちを造られ愛しておられる天の父なる神様が切に願っておられます。
一昨日の金曜日、5月に教会修養会で招いた大串先生が改めて長老の研修会をしてくださいました。そこで改めて心に残りましたのは、先生が新しく教会を建てられた千葉県北総部にあるニュータウンの、街造りのコンセプト、考え方です。新しい街の中心に大型ショッピングモールをで~んと据えて、経済的に活気付いた街造りを計画した。そして教会とか、福祉施設とか、あるいは規模の小さいお店さえ、町の中心部には土地を買えない。町外れにだけしか建てられない。経済中心。お金中心の街造り。教会の礼拝堂を中心に据えたヨーロッパとは正反対の街造りです。その街に住む人の生活は大丈夫か、それでいいのかと心配になりましたが、では私たちの人生の中心には一体何が据えられているのか。他人事ではないと思うたのです。経済中心に回る人生、金に振り回される人生で終りだなんて、私はまっぴらごめんです。違うでしょうか。
大型ショッピングセンターは象徴的だと思いますけど、人間は、どういうところに価値を見出しやすいかというと、やはり大きいものとか、多いところに、心を引かれやすい。大きい方が価値があると思う。お金は特にそうでしょうか。昔の一万円札なんて、サイズからして大きくて子供ながらに目を引きました。サイズが小さくなった今でも、レジで、すみません、大きいがしかないがですけどと口では謙遜に言いながら、ちょっと自慢げな自分に気づくのは私だけでしょうか。
けれど私たちをご自身のかたちに造られた神様は、一人一人を、その心において見られます。人はうわべを見ますけど、神様は心を見られて評価をなさる。いま読みました御言葉で、十字架に架かられる数日前のイエス様が、当時のユダヤ人が神殿の前で献金を捧げている様子をご覧になられる。献金は神様に捧げるもので、それ以外ではありません。捧げるのであって、どうか決して支払わないで下さい。支払うのは料金です。祝福は、家族の祝福と同じで、決して買うことはできません。当時のお金持ちが、一体どう思って献金したかはわかりませんが、でもまさか、神様にと捧げている献金を、その神様ご自身が、そこで人となられて見ておられると知っちょったら、額も違っておったでしょうか(笑)。もし、というか、事実そうなのですけど、神様がこの後私たちが捧げます献金をじっと見つめておられたら、捧げにくいでしょうか。それとも親に見つめられた幼子のように嬉しいでしょうか。ところで献金の時、前に立っている長老が私たちの手元を見つめて、あ、少ないとか、わ、あんなに、とかはありませんので、どうぞご安心くださって、十字架の神様だけを見つめてください。
そのイエス様のまなざしが、一人のやもめを見出します。その手にはレプトン銅貨が二枚。今で言えば、50円玉2枚でしょうか。日本人のお賽銭感覚で考えるなら普通に思えるかも知れませんけど、ある人はこういうことも言っています。イエス様が言われるように、これが彼女の今持っている全財産であったなら、どうして1枚残して取っておき、夕食のためのパン一切れを買おうと思わなかったのか。色々考えられるかもしれません。パン1枚ぐらいしか食べれんやったら、全部献金したほうが、ひょっとえいことがあるかもしれんと、お賽銭感覚、ご利益主義で考える人もあるかもしれません。けれどそれならイエス様が彼女に心を動かされて、この人は誰よりも沢山入れた、とはおっしゃらんかったでしょう。持っている生活費と訳された言葉はもともと生命、ギリシャ語でビオス、命という言葉です。彼女は命を全部捧げたと、イエス様は、心動かされて皆におっしゃる。貧しいからこそ、一部だけというのではないのです。貧しいからこそ、精一杯捧げたかったのではないでしょうか。例えば親が一人暮らしの子供を別々に二人訪ねて、有り余る中からステーキをくれる子と、貧しくてパンが2切れしかないのに、これしかのうてすまんけど、私いんま食べてきてお腹すいてないきと全部くれる子と、どちらが愛してくれていると思うでしょう。経済中心の街に住み人生の中心までも狂わされ、お金中心の考え方で人間関係さえ考えて、これは私の人生の分、私が好きにしてよい分、で、余りを誰かに、あるいは神様にと、そういう心が生活に現れてくる。そういう生活から心も見える。うわべだけ見よったら見えてこんでも、心を見るなら見えてきて、見たくないけれど見えてくる、持っていた人々の心を見ておられたイエス様の心が苦しくなる。そこに、貧しいやもめが入ってきて、全部捧げた。イエス様、グッと来たんじゃないかと思うのです。あ、あの人とわたしはすごく似ちゅうと、思われたのかもしれません。
神様が私たちの代表として人となられ、私たちの罪を、全部その身に負われた。身代りに裁かれて赦すため、私たちの罪を十字架で背負って赦すため、ご自分の一部だけでなく、全部をお与えになられたイエス様がこの人を見られたとき、慰められたのじゃないかと思うのです。我が子をかばって背負って生きて、また死にさえする親が慰められるのは、その子が愛してくれたときじゃないでしょうか。けれどその子がもし、お父さん、僕、お父さんみたいにはなりたくないと言ったら、パリーンって心割れますよ。私みたいにガラスのハートなら、落ちた破片を拾い集めながら、ま…まあ、お父さんやち、自分の嫌いなところはあるし、極道なところとか、自慢げになるとことか似て欲しくないしと、自分を慰めようと考えることもあるでしょう。けんどもし、僕、お父さんみたいになりたいって言われたら、そらもう無条件で鼻の下のばすか、そら嬉しい。イエス様は、このやもめの心を見て、わたしを愛してくれて、うんと嬉しいと、改めて十字架に向かう決意を新たにされたのじゃないかと思うのです。そうだわたしは、この子らに全部捧げると。
日本語では、余生とか余命という言い方をします。互いに意味は違いますけど、どちらも余りの生命、命という意味でしょう。余りというのは、金持ちたちがやもめよりは多額の献金をしたのですけど、有り余る中から献金したと主が言われるように、余りというのは、もう大切な、価値のあるメインの部分ではないという響きがあります。私はこれも、経済中心、お金中心の価値観によって歪められた言葉、いのちの考え方だと思っています。違うでしょうか。誰が余りの命なんて生きたいでしょうか。余生という言葉を字引で引いたら、人生の盛りを過ぎたとありました。それこそ経済中心の考えか、うわべ中心、見た目中心、歪んだ人間中心の見かたでしょう。聖書が、人は神様のかたちに造られたと、宣言する、神様に由来する命のあり方。それ故、どんな人でも、どんなに齢を重ねても、決してズレることのない命の価値。失われることなく人と比べる必要もない。罪を犯して汚してしまっても、その罪を赦され神様の愛のもとで立ち返って生きられるように、神様が私たちの身代りとなられて十字架で死なれて、だから、あなたは生きなさい、わたしの祝福に生きなさい、歪んだ価値観から逃れ出て、わたしの前に生きればよい、あなたはわたしの目に高価で尊いと、キリストが、すべての人にご自分を全部捧げてくださった。だから、祝福があるのです。人は、罪赦されて救われて、神様の家族として永遠に生きられる。
教会で毎週礼拝が捧げられ、そこに集まる人々が神様の家族としての祝福を受ける。それも単にこの日が休日で、余暇の過ごし方の一つに、宗教的祝福を選ぶのではないでしょう。時間が余って暇だから、家族と時間を過ごすのではないのと同じです。有り余る中から、その一部をという生き方は、イエス様を悲しませた経済中心に歪められた金持たちの余生であり、神様の家族の祝福からは、遠く離れていないでしょうか。でもその子らが、どんなに遠く離れておっても、家に帰ってこられるように、神様が家路を開いてくださった。キリストがご自分の全部を差し出して、全部の罪を背負ってくれて、全部、赦して下さって、あなたもわたしの家族じゃないかと、家路に招いてくださった。この家族の祝福に生きるとき、いのちのズレは直されます。神様の家族の祝福に生きられるのです。
齢を重ねていようといまいと、たとえどんなに若くって、人生の盛り全盛であっても、大切な命を浪費して、余生になることはあると思います。だったら、全部生きると書いて、全生と。そういう熟語はありませんけど、一回限りの命なら、全部捧げて生きていく人生。神様の家族の祝福に全部生ききって、後悔なし。漢字で書くとわかりますけど、余りという字の下の点々、何か困った顔の目のような、あの点々を、まるで種を地に蒔いて手元からなくすように、捧げてしまってなくなったところに、スッと地面の線を引いたら、全部の全という字です。一部ではなくて、全部捧げて、種蒔いて、今日の食事の種であっても、蒔いて実るかどうかもわからん、自分では食べられんかもしれない種を、イエス様の十字架を仰いで全部蒔いて、神様を信じて全部蒔いて、人々の救いのために、笑顔のために、神様の家族の祝福のために、天の父なる神様の嬉しい笑顔を見るために、全部蒔いて、捧げて、後悔なし。その種は、絶対、無駄になりません。神様が無駄にさせません。十字架のふもとに蒔かれた種は、神様が全部面倒をみてくださいます。その種は復活するのです。いのちは、増し増していくのです。これが神様のいのちです。キリストが、私たちを祝福してくださった命なのです。

11/9/18朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書20:45-47、詩編12篇 「神様を求めない祈り」

11/9/18朝礼拝説教@高知東教会
ルカによる福音書20:45-47、詩編12篇
「神様を求めない祈り」

以前、通信販売でコーヒー豆を挽くコーヒーミルを買ったことがあります。好きな方はご存知かと思いますが、豆を挽くために回すハンドルが、上についちゅうのと、横についちゅうのがありまして、私はどうせ買うなら、横についちゅうのが恰好えいにゃあと店で探すと、べらぼうに高い。あ~でもと思って捜していたある日、通販で、安くて恰好えいクラッシックな渋い商品に出会い、これや!と買い求め、届いたミルで鼻の下を伸ばしながら早速コーヒー豆を挽いておったら、ボキ、…あ、折れた。ミルを回す主軸がポッキリ折れて、中身はいかにも安い鋳物。あんまりにも情けないのでノークレーム、ノーリターンで何年も部屋に飾って、自分への戒めにしていました。人は見かけに騙されやすい。
イエス様は言われるのです。あなたもまた見せかけのキリスト者にはなってくれるなと。
人から良く思われたい。それは人間の持つ自然な願望ではないかとも思います。必ずしも悪い欲望だとは言えんでしょう。子供が親から良く思われたいと、喜んで頑張る。自然な、むしろ望ましい関係がそこにはあると思います。イエス様も私たちに祈りを教えて、あなたがたの造り主なる神様に向かって、あなたは、父よ、天にまします我らの父よ、と祈ったらよい。父は喜んで、あなたをまっすぐに見てくださる。あなたのまことの父の喜びに生きるとき、あなたの願いは叶ったと知るだろうと、父の喜びに生きる祈りを、主もまた教えてくださいました。神様の愛を知り、神様を愛し、そこから生まれる人への愛に生きていく。超自然的な愛でありながら、けれど本来自然な愛に生きられる喜びを知る。それがキリストによって与えられる、恵みに生きる喜びです。
けれどもし神様を信じ敬う、信仰者の看板を背負って生きながら、人からその看板を見られて一目置かれることが、喜び、願いとなってしまうなら、神様はどんな思いで私たちを見られるだろうか。その誘惑に気をつけなさいと言われるのです。こんな場面を想像できるでしょうか。歩いていると、自分の誕生日をお祝いしてくれるパーティー会場の看板がある。え~って照れながら、でも期待して会場に入ると、私の名前は連呼されているのに誰も私を見てくれない。なのに、いかにも私の親友だという顔をして、人から、お~と一目置かれている人が朗々と私について語っておって、しかも、それは真実の私ではない、私についての嘘を聴く。悲しくなって顔を背けると、あ、私は自分のお祝いには、この人を絶対に招きたかったという人がおって、嬉しいと思いよったら、先の、嘘の私の親友がその人を食い物にして、貧しいその人に私の名前で取り入って、お祝いを騙し取り、嘘の私への賛辞が語られ、愛する人がますます苦しい生活を強いられる。イエス様は、このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになると言われます。その裁きを、私は襟を正して思いつつ、受けたくないと思うのです。イエス様ご自身が、それを願われ、誰一人、そんな裁きを受けて欲しくないから、ご自分で裁きを受けに来られたからです。
私の買うたコーヒーミルの話に戻りますけど、どうして買うてしもうたのでしょう。欲に駆られたから。イエス、その通りだとグ~の音も出ません。が、その欲がどこで膨れ上がって、私の知性と意志をワッと飲み込んでしもうたかというと、その写真を見たときです。ミルだけに。これは余計でしたが、イエス様も、見せかけに気をつけなさい、また、あなた自身、人に見せかける誘惑に気をつけなさいと言われるのです。何故か。誰しもが、比較的楽に満足を得られるこの手段に頼ってしまうからじゃないでしょうか。最近は進化しているらしいですが、いわゆる俺俺詐欺も、どうして一向に減らんのか。百発百中ではないけれども、見せかけの演技をするだけで楽してお金が入るからでしょう。少し前、夕刊の四コマ漫画にこういう話がありました。おじいちゃんが孫に尋ねる。歯を磨いたかえ。うん磨いたよ。おじいちゃんは自分を磨きゆうかえと尋ね返す。おじいちゃんが、お、お~と言って、遠山の金さんよろしく片肌脱いで、ムキっと筋肉を作って顔をイケメン風にして終わり。面白かったのですけど、どうして、自分を磨く=見た目をよくするになるのか。自分=自分の心だと、漫画がオチんと思われたのか、あるいは一般的な風潮を風刺しているのだろうかと、少し考えさせられました。外側だけでえい。中身は問われないままで通用してしまう人の世界。
これを形式主義とも言うのでしょう。中身じゃなくて、形式に意識が向く。見かけで、おお、これはと。例えば、割と多くの教会では牧師が礼拝で黒いガウンを着ますが、あれを形式主義と捉える人も中にはおられます。が、もとは16世紀のスイス宗教改革で、当時ローマ教会の司祭が、まあいかにも宗教っぽい司祭服を着て、民衆にはわからんラテン語で礼拝をしておったのを改革して、牧師とは、神様の御言葉を、人々にわかるように教え導くために神様に選ばれた者であるから、当時大学の講師が着ておった教師のガウンを着ることで、それを皆に知ってもらおうと、敢えて教師用ガウンを着たのです。何かわからん言葉が唱えられるところで、人々が無知故に好き勝手神を拝み願い事をするのが礼拝ではないだろうと。むしろ神様が私たちに願い求めておられる真実の命、生き方がある。その神様の愛、求め、私たちへの御言葉を聴いて、父の喜び、父の求めをこそ喜んで生きる。もし自分がその求めから離れて、自分勝手な求めに生きていることが示されたなら、ごめんなさいと悔い改めて、改めて神様との愛の関係、人との本来の関係に生き直すよう、仲間の助けを借りながら、共に重荷を負いながら、一緒に神様の愛に生きていく。これが私たち本来の生き方じゃないか。それを教えてくれるのが、聖書の言葉、神様の御言葉ではなかったか。その御言葉を礼拝で説き明かし教える牧師の服装は、じゃあ教師の真っ黒なガウンにしようと、具体的な宗教改革を行った。のに、それがまたもやひっくり返って宗教的装いになりやすい。御言葉の教師という中身がなくなり、説教がなんかようわからんけんど、宗教的権威に見えるし、何か霊的なお力に守られるろうと。あるいは礼拝の中身が問題じゃなく、礼拝に行くこと自体が宗教になる。日本人の宗教意識は、そういうところがあるように思えます。宗教的な何かをやること、行事それ自体が宗教になる。行事宗教。行事主義。形式主義。中身はわからなくっても、見た目がちゃんとしておって、それらしくって、権威があって、やることやりよったら大丈夫よえと。しかし、その権威は一体、誰の権威かと主は問われるのです。それの中身は問われないのかと。御言葉によって世界を造られ、その造られた地面の土から、私たち人間の形を造られた神様は、それでは、ただの形だけだから、そこにいのちの息を吹き込んで、人は初めて生きる者になるのだと、ふ~っと、まるで口づけをするように、ご自分の息を吹き入れられた。それで人は立ち上がって、生きられるのです。人は中身で生きられるのだろうと主は言われます。人はうわべを見るけれど、わたしはあなたの心を見ると、父が私たちに求められる。
神様が心を見られるというのは、道徳的かどうかを見られるのでしょうか。無論そうではありますが、そこですぐ、真っ先に問われなければならないのは、それが人間の道徳で終わってないか。人から良い人だと認められたい、あるいは自分で自分を褒めてあげたい、そういう自分に正直に生きたいと、人間だけで終わってしまって、あるいは自分だけの道徳に終始してないか。神様の家族の愛の掟、文字面だけでない真実の律法、御言葉によって知らされる、神様の求めを聴いているか。そして神様に向き合って生きてきたか。すべからく人が受けなければならない死後の審判に先立って、厳かにその現実を受け止めながら、誠実に神様に向き合って、神様、これが私の中身です、私はあなたからよくやった我が子よと褒められたくて生きてきましたと、行ってきた様々な行いの動機や願望、求めてきたこと、手に入れてきたもの、そして隠れて行ってきたこと。すべて白昼に神様に差し出して、しかし、そこでこそ自分の心にも明らかにされる、罪の自覚と裁きへの畏れを、隠し通せる人がいるのでしょうか。神様が見たいのは、そこでしょう。祈りとは、これを隠さず、自分にも隠さず、ここでこそ明らかにされる真実の自分に向き合って、罪を悔い改め、キリストをくださった父の恵みに感謝して、父よ、天にまします我らの父よ、私にも御名を崇めさせたまえと、父の赦しのシャワーを浴びて、神の子に立ち返ることに他なりません。
そのためにキリストが祈って下さった。人に見せかける長い祈りでは届かない、自分を捨てずしては決して届かん、父の求めに叶う祈りを、短くてするどい矢のような執り成しを、十字架の上で祈って下さった。父よ、彼らを赦してください。自分が何をしているのか知らんのです。これに勝って父の求めを代弁する祈りがあるのでしょうか。見せかけではない十字架を背負って、あえぎ苦しまれ血を流されて、私たちの罪を全部背負って、三位一体の聖なる神の御子、人となられた御子なる神様が全ての人間の代表として人となられて、すべての罪咎を身に負って、この十字架の故に赦して下さいと祈られた。わたしが全部責任を負いますと。自分を捨てて、犠牲となって、ここに神様の愛がある、罪赦される救いがあると、自分が何をしているか知らないで行ってきた全ての罪を、あなたは赦されて知りなさい、神様はあなたを愛しておられると、私たちの死を死んでくださった。だから人間は救われるのです。そして罪とは何か、赦しとは何か、愛とは、生きるとは何なのかを、キリストを仰ぐときに知るのです。罪を負われて十字架で死なれ、三日目に復活をされたキリストを仰いで礼拝するとき、私たちは神様の求めに生きることができる。キリストが言って下さった。見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。だから、あなたがたは行って、全世界の人々が神の子として生きられるよう、洗礼を授け、あなたがたに命じた全てのことを、守って生きていくように、教えなさい。
だから教会は教えるのです。うわべに生きてしまう罪を悔い改めて、父の憐れみに生きていこうと、キリストの救いに生きていこうと、主の福音を、身をもって人にも伝える。これがキリスト信仰の中身です。