11/8/28朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書20:20-26、エステル記3章1-5節 「人と神様に仕える」

11/8/28朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書20:20-26、エステル記3章1-5節

「人と神様に仕える」

 

皇帝のものは皇帝に、神様のものは神様に返す。自分のものではないのですから、人のものは人に返して、神様のものは神様にお返しする。人間として当たり前のことだとも言えるでしょう。例えばお金を誰かに貸して、全然返ってこざったら、どういうことかと思われるでしょう。ずっと前、ある教会を訪ねたとき、すまんけどタクシー代を貸してと、初めて会った青年に頼まれ、5千円貸したでしょうか。それから本当に何年もたってから、その方の顔も忘れた頃、すみませんでしたとの手紙と一緒にお金が返ってきたことがあります。その方は、ずっと心に重いものを感じながらの年月を過ごしてきたのかも知れません。ついに良心の呵責に耐えれんなったか、祈りの中で神様の語りかけを頂いたのか、これはやっぱり自分のものではないから、返さなければならないと、心打ち砕かれる経験をされたのではないかと思います。

私たちにとって、神様のものって何でしょう。単に心の問題、良心の問題だけではないでしょう。無論、良心を誤魔化して逃げるところに、神様からの逃避があるというのは、どなたもご異存はないと思います。アダムとエバからそうでした。神様のものを奪った。でも、良心だけでしょうか。アダムとエバは、一つでも神様から頂いたものでない何かを持ち得ておったと言えるでしょうか。それは、アダムとエバに限った話ではないと思います。キリストが私たちに向かっても語っておられる、神様のものを返しなさいって、一体どういうことでしょう。

例えばこれは神様のものでなくて、皇帝カイザルのものという何かがあるのでしょうか。これは、この世のもので、これはあの世、というか神様のもの、という分け方があるのでしょうか。お金は汚いからこの世のもので、そりゃ教会も献金があるけど、あれはこの世で例えば会堂や伝道費がいるから献金はするけど、最低限の必用を満たせば、要は心の問題だから、お金ではなくて気持ちがあればと考えがちなのかもしれません。でもそうやって宗教はあの世のこと、あるいはあの世に行く心に関することで、そういうものは神様に返して、宗教的な思いや良心や、礼拝儀式とか祈りとか、そこだけに神様のものを限定し、宗教の領域、神様の領域を仕分けして、後はこの世の領域だという考え方なら、気分的に借りが少なくなるということでしょうか。けれど私にお金を返した青年は、少し神経が過敏だったから、たかが5千円くらいと思えなくって返したのだとは、私は思えないのです。それなら神経が太ければよいのです。忘れっぽいのが幸せなのです。だけど神様のご支配はそうではないので、預言者が次々と遣わされ、神様のものは神様にと、御言葉はずっと語られてきたのですけど、拒まれてきた。そして神様は人となられて、私たちのところに来てくださった。それが今日お読みした御言葉の直前の御言葉、ぶどう園と農夫の譬えで、主が語られたことでもありました。私たちが自分のモノだと思っているこの命は、神様のものではないのかと、だから、神様による収穫の日が来る前に、あなたの造り主に立ち返り、悔い改めて救いを得なさいと語られた。今日の御言葉は、その続きです。

イエス様の語られる悔い改めのメッセージを快く思わなかった人々、律法学者や祭司長たちは、そこでイエス様を、この世の権力を代表するローマ総督の支配と権力に引渡そうと、知恵を練ります。神様のものを神様に返すことに、非常な困難をおぼえるときに、ほぼ必ずと言えるほど登場する人間の知恵でしょうか。御言葉の通りに神様のものを神様に返しよったら、この世ではやっていけんと、この世の力を登場させて、この世の支配にひれ伏す。支配と訳された言葉は、アルケーという言葉で、うんと価値があるという意味から、最初にくるものという意味になり、最初のものですから、後に続く者を従える支配者とか、支配を意味するようになった言葉です。こっちの支配こそ、御言葉の支配より最初に考えるべきなんだと、どうも思っていると言うのです。この世の支配こそ、やっぱりこの世で生きていく上では価値がある。そりゃ死んだらあの世の価値に移り換えないかんけど、この世で生きている内は、この世の価値が、この世の支配と権力が、実際は最初にくるのではないのかと、思ってしまいやすい弱さがある。頭では、神様が上で、この世の価値なんてと正しく理解していながらも、だけど神様より低い価値ではあっても、実質価値があると認める。だから、この人々も、この世の力を利用して、イエス様を黙らせようとするのでしょう。この世の中で生きていたら、この世の支配の利用価値は自ずとわかってくるのです。力があって、財力があり、能力があって、頭がよくて、ルックスがよくて、そういう力を持っちゅう人が、やっぱり支配してないでしょうか。親の力とかコネがあるというのも、実力主義ではないにしても、力には変わりありません。そういうこの世の支配、権力が、この世ではモノを言うのだと、これを嫌っている人々でも、認めざるを得んものがある。律法学者、ファリサイ派の人々は、祭司長たちとは違い、ローマ権力を嫌っていましたし、神の都エルサレムを支配するローマ帝国に税金を納めるなんて腹立たしいと思っておった。が、支配の力は認めざるを得ない。しかし認めるが故に、これと真剣に闘うというのではないのです。逆に利用して、神様のご支配、神の国を語られるイエス様を、黙らせようとして知恵を練る。それは結局、国籍がローマではないだけで、この世の支配に屈しているのではないでしょうか。うんとわかりやすく言えば、ローマ人であろうとユダヤ人であろうと、自分の願いを叶えるために、この世の力を信じているなら、この世に支配されているのです。

その支配が、税金によって、お金の納め先によって代表されているのは注目に値します。私たちが如何なる支配にひれ伏しているかが、お金の納めどころで露見するのです。特にルカは、イエス様がお金と支配について繰り返し教えてこられたことを丁寧に述べます。それを私たちも繰り返し聴いてきましたから、おそらくお金の使い道が変わってきただろうと思うのです。主は、あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ、と12章で言われました。それは主が、あなたがたは、どのような支配を求めているのかと問われたのです。一体何の支配に、あなたはお金を納めているかと、私たちがひれ伏している支配を問われた。それはその御言葉が語られた12章31節から聴くとよくわかります。「ただ、神の国(神様のご支配)を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国(神様のご支配)をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」同じ恵みを、主は今日も言うておられるのです。神様のものを、神様に返しなさい。

私たちは、お金を代表するこの世の支配から、自由になれるのです。神様のものは、神様にお返しすればよいのです。キリストが、この世の支配から私たちを自由にしに、神様のご支配そのものとして、この世の只中に来てくださったから、わたしに従いなさいと招かれるイエス様に従って神様のために生きられる。そこに神様のご支配が現れています。自分の願いを叶えるために、この世の支配に屈するのでも、あるいは、神様を利用しようとさえするのでもなく、神様のものを神様に返して、自分を捧げて、神様の救いの御心に生きるところに、この世の支配からの自由がある。私たちは、もっと本当は自由なのです。

税金は無論、納めてください。ただ、納める理由は変わるでしょう。皇帝のものも神様のものです。この世の支配には屈しませんが、この世の務めは果たすのです。神様の子として、神様の僕として、この世に証を立てて生きる。キリストを下さった神様は生きておられると、私たちは、この神様に救われて生きられるのだと、イエス様に倣う自由な僕として生きていく。生きる目的が変わります。神様のご支配に生きられる自由が、十字架で与えられているからです。

神様から頂いた恵みの数々に支えられ、今を生きている私たちの命を皆いつか神様にお返ししなければならないことは、誰もが知っていることだと思います。そのとき神様が言われるのです。わたしのものは、どこにあるのか。命って、封筒に入れて納入できません。仮に入れられたとして、それは残金に過ぎんでしょう。あるいは残金がなくなったので神様の前にいるのなら、それは使用明細であるかもしれません。神様のものを、私はこうやって使用しましたと。その中に、神様に返してきた命もあるはずです。神様のために生きてきた時間が、神様のために捧げてきたお金が、神様のために涙した苦しみが、この世の支配の只中で、神様のものを神様にお返しして、あなたこそ私の命の主ですと、神様にひれ伏し、お返ししてきた、神様のものが明らかにされる。そのときにしかし、あなたはわたしのものを滞納していて、多くの負債を負っていると、一人でも言われない人がいるのでしょうか。誰もが、神様に滞納し、負債を抱え、返すべきものが未だに、未納のままなのに、更に未納が重なって積もり積もって、どうしようもなくなっている現実を、神経を太くして無視したり、忘れたり、この世の支配に逃げ込もうとして罪を重ねる。その私たちの重荷を十字架で負われて、神様が負債を払いきられることがなかったら、どうやって私たちはこの負債から自由になれるのか。だから神様が来て下さって、人となられて、私たちの身代りとなって十字架で死なれ、私たちの支払いきれない滞納を、全部支払って下さって、あなたの罪は赦されたと、自由を与えて下さったのです。

私たちを罪と裁きとから自由にするため、神様はキリストを私たちの代表として与えてくださり、この世の支配が行き着く先、死者の中から復活させて、あなたもこれからは、神様の子供として生まれ変わって、復活の自由に生きなさい、この世の支配に抗って、わたしのものとして生きていきなさいと、救いの恵みを下さったのです。

ここに神様のご支配があります。キリストによって約束された恵みのご支配の只中で、私たちは神様に、すべてをお返しできるのです。