11/8/14朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書20:9-19、詩編118篇22-25節 「捨てられた神様」

11/8/14朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書20:9-19、詩編118篇22-25節

「捨てられた神様」

 

イエス様はご自分を、神殿の隅の親石に譬えられます。木造日本家屋で言えば大黒柱とも言えるでしょうか。この会堂なら、この梁でしょうか。ところがこの梁は、この会堂を建てる大工さんが、こりゃ、使えんと一度捨てた材木だった。自分のイメージ通りのがやないといかんと捨てられた。例えばこの梁に太い裂け目がバーッと走っておったら、素人見には不安になりそうです。実際3㎜程の亀裂があります。ただし木を良く知る大工によれば乾燥して硬い証拠だそうですので、安心して座っていて頂きたいですが、本物の強さの意味を知らぬまま、自分の強さや正しさにこだわって、本物を捨てることってないでしょうか。神様の愛を、捨てていることってないでしょうか。

イエス様はこの譬えを、民衆に話されました。ともすると当時の宗教指導者たち、権力という力に居座っている人々に対してのみ、そうだ、そうだ、イエス様、もっと言うちゃって下さいと、他人事のように聞いてしまうかも知れんところで、民衆は、自分のこととして聴くのです。ぶどう園のイメージは、旧約聖書で好んで用いられた神の国のイメージでもあります。あ、神の国のお話や、神様のご支配の中におる人の譬えや、私はそこに入っちゅうろうか、聴きたいと、すっと聴き入ったのかもしれません。皆、自分のこととして聴いた。でも、その言わば悲観的過ぎる結末に、そんなことがあってはならなりませんと、神の国の話に引き込まれてはいくけれど、受け入れられない。権力者、学者や祭司長たちも、これを自分のこととして聴きます。そして主を殺そうとするのです。自分のこととして聴くというのが、御言葉を聴くうえでの大前提ですが、自分のこととして聴いたとしても、そこで自分の考えと違うておったら、どちらを信じるか。自分か、それとも神様か。

神様の言葉を信じない人間の姿が映し出される、まさしくそこで語られたのが、その私たちを、え~と言う程に信じられる神様のお姿です。違うでしょうか。ぶどう園の主人は神様です。そこで働いているのは私たちです。今までイエス様は私たちを神様から命を預けられた管理者として語られてきました。命だけではない。子供もそうだし、親もそうでしょう。自分で選ぶことはできんのです。命の実りを、神の国の実りをもたらすようにと、神様から何にも任されておらん人は一人もおりません。それを、まるで自分のモノであるかのようにふるまうとき、世界は罪人の国になりさがります。本当は神様の家族が、命の実りを分かち合う、神様の農園であるのにです。その農園に神様は、ご自分の僕を遣わされる。袋叩きにされて追い返されても、何かの間違いじゃないかと、また別の僕を遣わします。今度は侮辱までされる。お前、神様の言いなりか、犬かとか言われて殴られたのでしょうか。それでも三度目の正直とでも言わんばかりに、もう一人また送る。送られる僕も偉いと思いますが、今度は大傷を負わせられる。そこで、もう堪忍袋の緒が切れた!とならんのです。僕たちの負わされた傷や侮辱を何とお思いなのでしょう。そんなにも、農夫たちのことを愛しておられるのでしょうか。主人は、どうしようかと思い悩んで、そうだ、わたしの愛する独り子を送ろう。そしたら僕の言葉や態度や立ち振る舞いを見ても思い出さなかったわたしのことを思い出して、わたしとの関係を取り戻してくれるに違いない。だってこの我が子ならわたしにそっくりで、わたしそのもので、そしたら彼らもわたしと契約を結んだことを思い出して、独り子をも敬ってくれるに違いない。もしそうでなければ、わたしを敬ってないことになるが、いや、そんなことはないだろう、そんなことは決してあってはならないと、独り子を農夫たちのもとに送られた。

この世の常識から考えたら、この主人は、言葉は悪いですが、どうかしています。繰り返しご自分の言葉が拒まれて、侮辱までされて、傷をも受けて、僕が追い返されているのにもかかわらず、愛する独り子を、送りますか?私なら、自分の子を送ることはできません。農夫たちが、この子を敬ってくれるろうとは信じられんからです。前に米国にいたときですが、ちょっと問題があって世話していた十代の女の子が、最近会った青年から誘われたから行ってくると夜出かけようとするので、私が行って、その青年に会いました。何もしないから信じてくれとごねるので、夜中に未成年者を呼び出す男を俺は信用できん。もし正式に結婚を前提に誘っても俺が常に一緒ぜと言うと、クレイジーと言って出て行きました。だって信用できんもんはできんですよ。なら独り子を、罪人の只中に送られた神様の、そして御子の、罪人一人一人に対する思いは、どうかしているのではないでしょうか。けれど神様は、たぶん、に賭けられて、たぶん敬ってくれるろうと、独り子を農夫たちに渡された。

そして農夫は論じ合います。あってはならないほう、たぶんではないほうについて、すぐに考え始めます。言い訳をするとか、正当化するとも訳し得ます。論じ合うですから、ねえ、そうでねえ、と自分の意見を後ろ盾してくれる考えにも乗っかりながらでしょうか。そして神の子は自分たちのもとに来んかったことにする、と決めた。そしたら神の国を好きなように取り扱えるからと、考え、実行した。

主は言われます。彼らには、その決断と実行に相応しい裁きがくだされるだろうと。厳しい言葉です。だからでしょうか。民衆は言う。そんなことがあってはなりません。裁きがある、ということがでしょうか。私たちを救いに来られた方を、なかったことにするということがでしょうか。自分たちがそんなことするはずがないということであるのなら、数日後彼らは自分に裏切られます。彼らが主を十字架につけるのです。裁きの予告を聴いたのに、あるいは聴いたからでしょうか。そんな厳しい裁きを聴くのが怒りに変わったのでしょうか。

けれど聖書で随所語られる厳しい言葉を避けるとき、私たちは十字架のキリストを避けるのです。なら、どこに救いを求めるのでしょう。厳しい裁きがあるからこそ、御子なる神様が人となられて、私たちの裁きを受けに来てくださった。私たちの身代りとなられて、十字架の上で、また陰府で、神様の恵みのご支配から捨てられてさえ下さって、言わば地獄に捨てられて、だから、あなたは捨てられないですむようにと、私たちの身代りとなられに来て下さった。厳しさを引き受けて下さった。なのに、その厳しさを避けるなら、キリストの愛がわからんなります。厳しい裁きが語られるとき、そんなこと、あってはならないと逃げたくなるとき、でもならばこそ、キリストが逃げないで、私たちを見つめられて、言われるのです。人間にとって、神様の裁きは、どうかしちゅうと思われるかもしれない。そんな神様の裁きを聴かされるよりは、捨ててしまったほうがいいとすら思うかもしれない。しかし、その捨てられた裁きを神様は拾われて、あなたたちの救いが全部よりかかる大黒柱に釘打ったじゃないか。独り子を身代りに裁かれて、それで救いを果たされる神様、そのために救い主を十字架に渡される神様、そこですべての罪を負わせて、赦しを与えて下さる神様、そして、それ故にこそ、罪人の裁きを、厳しく遂行もできる神様、十字架にすべてを寄りかからせて救われる神様を、あなたも十字架を仰ぎ見つめてほしいと、主は私たちに求められているのです。裁きの十字架を負われた愛に凝縮される主の厳しさにつまずき落っこちてしまうのでなく、生きているものと死んだ者とを裁かれるため、十字架の主が再び天から来られる裁きの日まで、先送り先送りにするのでなく、今、主の前に立てるのです。立って主の名を呼べば良いのです。人間は捨てられたキリストに救われるのです。