11/7/31朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書20:1-8、申命記18章15-22節 「強がる弱さ、認める強さ」

11/7/31朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書20:1-8、申命記18章15-22節

「強がる弱さ、認める強さ」

 

人は自分を保証してくれる何かや誰かを求めながら生きているのではないでしょうか。一時流行った、あなたはそのままでいい、というのもおそらくそこに含まれるのでしょう。まったく逆に、あなたは全ての罪を赦されて、神様の子供として新しく生き直してよい、というキリストの福音も、確かに私たちを保証するのです。

その福音を、色んな角度から、広く深く具体的に、イエス様は人々に教えておられたのだと思います。神殿の境内はこの時、まさしく神様のフィールドであったと言えるでしょう。神様のフィールドで神様の救いの御言葉、福音が語られ、人々が熱心に耳を傾けている。神殿本来の姿が、このとき取り戻されていたと言う人もいます。

ところが、その福音が気に入らん人々がおりました。当時のユダヤ教最高議決機関、横文字でサンヘドリン、訳して最高法院と呼ばれておったの人々の癪に障りました。福音がです。何で俺が悔い改めないかんかと、私はこのままでいいじゃないかと、イエス様の教えられる福音に、パシッと耳を閉ざし、いかつい顔をして、代表数人で肩を並べてやってきた。福音そのものが気に入らんかったのでしょうか。神様は罪人を愛され憐れまれ、罪の赦しをくださるが、逆に憐れみのない高ぶる者には悔い改めを求められるという福音が、何でなと気に入らんかったのか。あるいは、それはまあ言わばもっともだから、神様から言われるのなら聴くかもしれんけど、この男から聴くのは癪に障るということでしょうか。じゃあどうやって聴くのでしょう。そもそも、どんな福音を聴きたいのでしょう。そこに罪の姿が出てきます。洗礼者ヨハネがヨルダン川で、悔い改めて、罪の赦しの洗礼を受けなさいと、人々に洗礼を授けておったときにも、あれは罪人や弱い人々がやるもんで、私は関係ない。洗礼によって保証されんでも、私は自分を保証するものを持っている。じゃあそれって一体何なんでしょうか。

この人々について言えば、自分たちは正しい権威によって保証されていると信じていたに違いないのです。最高法院のメンバーです。先生と呼ばれるような人々であり、それなりの努力もしてきたのだろうと思います。その意味で、彼らが権威にこだわるのはわかります。自分たちを保証する権威の根拠を、見ての通り、私は持っているけれど、あなたの権威の根拠は何か、見せろと、イエス様に向かって問いかける。

そこでイエス様は逆に問われるのです。あなたを保証するその権威。ヨハネの洗礼は、私には関係ないと思わせるほどに、あなたを保証するその権威というのは、神様に保証されている権威であるのか。それとも単なる人の権威か。あなたがもし今日ここで死んで、神様の裁きの前に立つとなっても、あなたを守り、あなたを保証し、この権威の故に私は立ち得ますと、すがりつき信頼できる権威の出所を、あなたはわきまえていますかと主は問われます。数日後すぐにも十字架で死なれるために天から来られたイエス様が、答えなさいと言われるのです。

人からの権威は、言わば、制度によって保証された権威と言えるでしょうか。例えば、人々に罪の赦しの洗礼を授ける権威を委ねられた牧師になるにも制度があります。日本基督教団の場合、何年もの準備期間と数々の面接と試験とに合格して按手礼を受ける。が、ここが急所です。いかに丁寧な制度でも、人を自動的に牧師にはできません。当たり前のことですけれど、どうして当たり前なのかが身についてないと、結局、人の権威で人を振り回し、自分も振り回されるということになってしまいやすいと思うのです。どうして制度やルールや決まり、人の権威は、神様からの権威を自動的には保証しないか。何故なら神様との関係はいつでも、信頼関係だからです。どんなにルール自体が正しくても、真実に結ばれた人格関係がなかったら、不正です。例えば、洗礼を受けたら神の家族になると言いますが、信頼抜きで、単に戸籍上の家族でかまんか。そんなはずはないでしょう。けんど戸籍上家族になれば、赦しとか清めとかのドナー移植ももらえるしと、そんな制度上だけの家族というのは、人間関係であっても、違法であって不正です。違うでしょうか。神様は信頼を求められます。わたしはあなたを救うと信じるか、信じて信頼関係の中を共に生きるかと求められる。キリストをくださった神様を信じるとは、そういうことです。神様と信頼関係を持つということです。少なくともそういう神様なのだと信じて、その神様との信頼関係に向かって、この身を洗礼に委ねるのです。信仰すなわち信頼なしの洗礼はありません。幼児洗礼だって、親や教会の信仰と、この子を信仰へと導くために仕えますという約束を必ず伴います。だから洗礼準備会で準備するのは、この福音の神様を信じますか、信頼して身を委ねますかという一点です。

ところで洗礼を受けるのに試験はありませんが面接はあります。神様との面接に先立つ面接だとも言えるでしょうか。洗礼の場合も牧師になる場合も、どうしても必要なのが面接です。何故いるか。どうして本人の希望をそのまま聞いちゃったらえいじゃかと言えんのか。そこでこそ信頼関係が問われるからです。この人が、どういう神様と向き合っておって、またどういう向き合い方をしているか、それを真剣に問わなかったら、自動的な洗礼や職業牧師を認可することになります。信仰は自己責任ではありません。家族の一員として生きることが、その本人だけの責任で、それをめいめいが自分の役割を自己責任で果たすのではありえないのと同じです。神様との信頼関係が愛のない自己責任にならないために、主は人を、言わばヘルパーとして用いられます。信頼するということが、私個人のことでなく、自分の外に出て、相手に任せることが、信頼するということだからです。だから、見えない神様を信じる保証として、自分の外にいる誰か、洗礼者ヨハネであったり、牧師だったり、長老達という、自分ではない人々を主が私たちとの関係に招き入れられます。そして神様と面接するように、嘘のない、自分自分だけで終わらない、真実に神様と向き合う信仰の道を与えられる。それが神の家族、教会に与えられている愛と信頼の道なのです。そこで行われる面接は、面と面が接し、顔と顔を合わせて、その人の人格に向きあうものです。この人は信頼できる。嘘は言ってない。もちろん完璧ではないけれど、ならばこそ、この人を主に信頼してお任せします、主よ、憐れんで下さいと、互いに自らを主の御手に委ね、アーメンと祈る。

無論、面接という制度があれば、そこに信頼があると保証されるわけでもありませんが、だったらと言って、面接を適当にするなら、人間の権威になるのです。すぐなります。面接だけじゃなく、どんな人間関係だってそうでしょう。信頼関係を求めないで、たとえ面倒だと思っても自分の外に出て相手を信頼するということを蔑ろにしたら、関係は自動的になり、罪の威力が蔓延する、人間の権威が始まります。俺が俺が、私が私が。口論になったり、だんまりを決めたり。間違った保証に飛びついて、人の権威と自己正当化で自分自身を保証して。でもそうやって神様に打ち砕かれることのない、そのままの私は、何をわきまえているのでしょう。キリストを十字架につけられた神様の権威、愛の権威を、どうしてわきまえていると言えるでしょうか。

イエス様が、この人々に求められたのは、一方的な質問の振りをした非難、糾弾ではなく、真実に向き合うことでした。彼らが要求するように主がお答えにならなかったのは、もし真実を語っても、信じてくれんからでしょう。よくわかることだと思います。信じてくれん人に何を言っても、意味がないと思ってしまう。だって、求めているのは、正しい答えを理解してもらうことでも、相手を説得し勝ち誇ることでもなく、信じてもらいたいということです。わたしはあなたのことを思っているということを、信じて欲しいということでしょう。信頼関係の中でこそ対話も生まれ、相手がわかって、誤解も解けて、自分が変えられていくという奇跡も起こります。対話せず、相手を信じず、自分の外に出ることがなかったら、頑なになるばかりです。それを変えるのが信頼です。自分を本気で変えたいと思ったら、この人は信頼できるという人を見るのです。その人の信仰と悔い改めを見ればよい。あの人は本気で、自分を捨てて、権威を捨てて、神様を信じている。なんか本当に神様がすぐ側におるみたいに、愚かなほどに信じている。そういう人を無視できるでしょうか。

だから大勢の人々が、イエス様だけでなく洗礼者ヨハネをも、無視できんかったのだと思うのです。ヨハネは人々に、罪の赦しの洗礼を説きました。悔い改めの恵みを説きました。あなたは神様の赦しのもとで、変わることができるという神様に対する信頼を説いた。祭司長たちは、それとは全く反対の道を選び、自分を捨てて神様を信じるという選択を退けて、自分を守ろうとして権威を選んだ。問題は、悔い改めの道を選んで、洗礼を受けた人々であっても、この後、何日もせんうちに、主を十字架につけて殺してしまう人間の権威を、選ぶようになるという罪の威力です。罪の威力という人間の権威に、人は容易に屈してしまう。でもならばこそ、キリストは、黙して十字架に進まれるのです。たとえ、わかってもらえなくても、それでも愛し続けて、接し続けて、きっと、わかってくれるようになると、信じて十字架に進まれるのです。洗礼を受けても、なお罪に負け、罪の威力に屈する私たちが、それでもその罪を赦されて、神の子とされて救われて、新しく生き直すことができるのは、このキリストに結ばれるからです。それが洗礼であり、信仰です。キリストは私を見離されない。イエス様、どうか私をお救いください。この信仰を神様は喜ばれ、そうだ、わたしはあなたのために、キリストを十字架にはりつけて、あなたの罪を全部赦したと、救いを保証してくださるのです。

ここに神様の招きがありますと、洗礼者ヨハネと一緒になって、私たちもキリストを指さすのです。罪の赦しの洗礼を、神様を信じる信仰を本気になって証していく。そこに神様の権威が証されます。キリストを与えてくださった赦しの権威、愛の権威、救いの権威が現れるのです。