11/7/24朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書19:45-48、イザヤ書56章1-8節 「礼拝で心の向く先」

11/7/24朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書19:45-48、イザヤ書56章1-8節

「礼拝で心の向く先」

 

境内で商売をしていたと聴かれて、季節柄、沢山の屋台ですとか出店ですとかを想像された方もおられるかもしれません。ま、イカは汚れた食物だとされているのでイカ焼きの店はなかったはずですが、ここでの商売はもっと宗教的商売だとも言えるでしょうか。お寺さんで言えば、火をつけて鉢か何かに立てる線香を境内の売店で売ってるのに近いかもしれません。当時の神殿礼拝では羊や鳩などの生贄を捧げます。近所であれば家から連れても来れるでしょうけど、遠く離れたガリラヤ地方や北アフリカからも巡礼の人々は来ておりましたので、流石に一緒に連れては来れない。で、神様ももちろんと言いますか、それには配慮をなさっておられて、礼拝で必用な捧げ物は当地で買うてえいき礼拝に来なさいと申命記に記されています。ならば売ったり買ったり自体が悪いと、イエス様、言われているのではありません。どうしてそれを神殿の庭でやろうと思うか、他でやったらえいじゃいかと、わかりやすく言えば、ここは特別な場所であることが、どうしてわからんと問われるのです。ここでは神様に向き合って、罪の赦しの御言葉を聴いて、悔い改めて、自分を捨てて、神様に自分を捧げて祈る。この人生の一大事に集中するため、その他一切は他でやりなさいと、それ自体が悪いことではなくっても、一番大切なことを一番の座から奪ってしまうなら、そしてもはや特別大切なことでなくなってしまうなら、それは強盗だ、奪っているのだと言われます。それだけ礼拝は別格だと、あるいはそういう礼拝を捧げてなかったら、少なくとも、そういう礼拝の心で神様に向き合うことをせんかったら、そこにいるのは、罪の赦しを神様に求め、悔い改めて祈る人でなく、自分の好きなように奪う強盗じゃないかと、厳しくも、真実の礼拝を求められるのです。

礼拝という言葉に、もしも手垢がついてしまっているなら、真実の愛と言えば良いでしょう。神殿で捧げられる生贄は、わたしのことを指し示していたと、神様ご自身が人となり、十字架で私たちの罪を赦す犠牲となられた。その神様の愛を聴き、その愛を自分のこととして向き合って、誤魔化さない。目をそらさない。それが真実の愛、礼拝です。少し乱暴に言えば、相手が神様なだけで、真実の愛を生きようと思ったら、相手が人同士でも、誤魔化しを入れたらいかんというのは、当然のことだと思います。これぐらいならかまんろうという自分に対する誤魔化しも、相手に対して嘘をつく、あるいは言うべきことを言わんという誤魔化しも、重ねていくうちに麻痺します。お互いに麻痺してしまったら、なあなあの関係になるのでしょうか。あるいは一回の誤魔化しで、関係が壊れることだって少なくないと思います。壊れてもそこで罪に居直るのが真実でしょうか。そういう真実の捕らえ方もやはり強盗に奪われているのだと思います。真実の愛なら、誤魔化しがあったら悔い改めて、たとえ全部正直に言えなくっても、悔い改めて、新しく嘘なく愛していこうと今までの態度を変えようとする。内向き、自分向きだった我儘な態度を、相手向き、相手のために生きる態度へと、何度も何度でも悔い改めるのが、真実に愛するということでしょう。

ちょっとミーハーになりますが、先日の女子ワールドカップの決勝戦を夜再放送で見まして、グッと来ました。ご覧になられた方もそうじゃなかったかと思いますが、とにかくあきらめないのです。ゴールされそうになるたびに、フィールドの中央におったキャプテン澤が戻ってきて守りに加わって、ゴールに転がり込むぐらいに走ってきて、ダンダンと走ってきて、チャンスになったら敵陣に走って行って、全然止まらん。どんな32歳かと唖然としていたら、あ、後半ゴールを決められてしまった。ああ、キャプテン、あんなに走りよったのにショックやろうなあと思ったら、カメラに顔が映って、全然、心が折れてない。選手を励まして、またダンダンと走り回って。最後勝ったのも嬉しかったですが、何より、あきらめないという気持ちに、私は励ましを受けました。どうしてそこまであきらめないか。仲間があきらめないで走っているからか。仲間を裏切ることができないからか。自分が引っ張っていかないかんと思った、仲間への愛故か。あるいはサッカーへの愛故か。でもガンガン走ってヘトヘトの場面で、愛とか、サッカーラブとか、そういうのではないでしょう。むしろ、あきらめないというところにこそ、愛が真実な形をとって、現われたのじゃないかと思うのです。

神様との関係は、なら、どうか。真実の関係をあきらめてはないか。イエス様はここで、厳しくも真実の礼拝を求めておられると先に言いました。では、その誤魔化しをしないで真実に神様に向き合っている愛の形って、どこに現れてくるとイエス様は言われるのか。祈りだと言われるのです。先に読みました、イザヤ書56章の御言葉を引用されて「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と、礼拝に祈りがなくなってしまうとき、それは礼拝ではなくなってしまう、礼拝が強盗に奪われてしまうのは、祈りが奪われてしまうときだと言われる。無論、当時神殿で祈りが唱えられてなかったはずはないと思います。立派な祈りですらあったろうとも思います。でも祈りって、これも愛と言い換えることができるでしょう。立派な愛の言葉なら言えるのです。それで教会に人が来ることだってあると、感動しさえするかも知れないと、私は自分自身そうなってはいないかと畏れを抱きながら思うのです。でも神様は心を見られます。私たちの態度を見られます。真実はそこにあるからです。真実な祈りは心にあります。そして心は態度に表れてくるのです。ボロボロになってもあきらめないとか、つまずき倒れて嫌になっても、主よ憐れんで下さい、立ち上がらせて下さって主の後をついて行かせて下さいと、主の名を求めるところにです。あるいは、これぐらいはかまんろうと、あきらめや、妥協や、自己弁護、自己正当化に現れるのが、態度の真実ではないでしょうか。どうせなら神殿の境内で商売をする方が、楽やし、神殿で売りゆう生贄はご利益があると思われて売れるかもしれんと、また神殿を管理する祭司長たちも、そうしたら境内地借用の利益も上がるしと、考えておったのかもしれません。だから、神殿のためになるのだから、これっくらいはかまんのだと。

イエス様はその態度を、強盗だ、あなたは神殿を神様の家ではなくしてしまって、神殿、神殿と呼んでいるだけの自分たちのための家として強盗した挙句、神様への捧げ物までも奪ってしまった、あなたは祈りを強盗したと言われるのです。

改めて、真実な祈りって何でしょう。心の底から嘘のないことを願えば真実な祈りになるのでしょうか。欲望を欲望のままに開き直るようにして、これが真実の私ですと、まるで本音と建前に自分を分けて、公の場で祈るのが建前で、本音は…、本音は罪の開き直りだと言うのなら、そこで神様の目に映っているのは、神様に造られた真実の私を罪に強盗されてしまった、奪われた私の姿なのです。私の心も、この体も、神様が聖霊様によってお住まいになることを望まれた祈りの家であるのだとローマの信徒への手紙は慰めを与えますし、また聖餐式のたび毎に祈ります感謝の祈りで、同じ手紙の12章から、こう祈るのです。今、聖霊の助けにより、感謝をもって、この体を生きた聖なる供え物として御前にささげます。私たち、主の体の肢である自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができますように。これは建前でしょうか。決してそうではないのです。これが本音で祈れるようにと聖餐式の冒頭で勧めの言葉が語られます。ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。また、主の体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くと勧められています。かえりみて、おのおのの罪を深く悔い改めなければなりません。このようにして信仰と真実とをもって聖餐にあずかりましょう。真実をもってとは何か。ふさわしくないままで聖餐にあずかってはならないとは、どういうことか。神様が人となられ、この私の罪を全部身に引き受けられて十字架にぶら下がり、わたしがあなたのための罪の赦しの生贄になるから、あなたはわたしを信じて生きよと、キリストが罪を負って下さった。この赦しの恵みがなかったら、私はどうしようもないのだと、何度も何度でも、キリストよ、憐れんで下さい、神の小羊よ、私を憐れんで下さいとキリストの赦しを受けるふさわしさをもって、十字架の前で祈るということでしょう。この十字架の上で一度限り神様が捧げてくださった生贄によって、イエス・キリストの死によって、私の罪は赦されて、神の子とさえしていただいて救われるのだと、こんな私でも救われるのだと、神様の愛を信じて祈る。この祈りがあればよいのです。赦しを求める悔い改めの祈り。神様が私をやり直させて下さるとキリストの憐れみを信じて祈る祈りを、主の名を呼んで祈れば良い。

あきらめなくってよいのです。神様があきらめられてないからです。だから本気で関わってくださるし、悔い改めを求められるし、もし強盗の巣窟になっても、強盗は出て行け、罪は全部追い出せ、わたしの家は祈りの家でなければならない、そうだろうと、あきらめず、何度も何度でも訪れてくださいます。あなたはわたしのものではないのかと、真実の愛をもって訪れてくださる。

だから神様に向き合えるのです。真実に向き合うことさえできるのです。しばらく前の説教で、イエス様のなさった譬えを覚えておられますでしょうか。二人の人が祈るために神殿に上った。一人は、罪の赦しも主の憐れみも、祈りに上って来ない立派なファリサイ派。もう一人は、神様に顔を上げることさえできないままに、こう祈った。神様、罪人の私を憐れんでください。神様から、あなたはわたしの家にいるのにふさわしい、あなたの祈りは、この祈りの家にふさわしいと受け入れてもらって家に帰ったのは、この人であるとイエス様は言って下さいました。神様の前から、この祈りを取り上げて奪うのが強盗です。神様の前に、祈りを教えてくださるのが救い主です。我らの罪を赦したまえと、ただただ主の御名を呼んで祈る、十字架の恵みを受けるにふさわしい者として、あなたはわたしの家にいなさいと、主が呼びかけて下さるのです。