11/7/17朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書19:28-44、ゼカリヤ書9:9-10 「十字架への道、平和の道」

11/7/17朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書19:28-44、ゼカリヤ書9:9-10

「十字架への道、平和の道」

 

王様にも、二種類あるように見受けられます。民の先頭に立って進まれる王と、安全な城から命令だけを下す王。キリストは、私たちの先頭に立って進まれました。振り返られたろうかとすら思います。十字架への道、平和の道を、たとえ一人として後に従う者がなかったとしても、キリストは、進んで行かれたに違いないのです。

ただ、唯我独尊、他の人など我関せずというのでは無論ありません。人々と共に進まれます。後にご自分に向かって、十字架につけろと叫ぶ人々であったとしても、この人々のためにこそ進まれるのです。悔い改めて、信じればよいからと、共に、しかも先頭を切って歩んで下さる。

その途中で、ロバの子を必要となさいます。どうして馬ではないのでしょう。せめて親ロバのほうが楽じゃないでしょうか。楽をしようと思ってであれば、そもそもエルサレムには行きません。十字架で死ぬために、人となられることもなかったでしょう。十字架のためのクリスマスです。今まさに、その十字架のエルサレムの前にいるのです。

先に読みましたゼカリヤ書9章9-10節の預言の言葉。これをイエス様は人々にわきまえて欲しかったのだと思います。どういう王として主が来られたか。人となられた神様の訪れとは一体どのような訪れなのか。エルサレムは、わきまえてなければなりませんでした。「…」9-10節。

戦争のための馬ではなく、まるで平安時代の貴族のように楽に寝そべって運んでもらえる牛車や御輿に乗ってでもない。一般の人が荷物や人を運ぶロバ、しかも小さな仕事しかできんに違いない、小さなロバの子でかまんから、いや、この子をこそ、わたしは望むからと、背の低い子ロバをキリストは求められます。婦人会の姉妹方が、新しく礼拝に来られた方々に、どうぞまた来てくださいと渡す小さな本があります。この子ロバから取った題名で、ちいろばという本です。著者の榎本保郎牧師は、それはもう馬車馬のように伝道された方でしたが、私はこの小さな子ロバだ、こんな小さなつまらない者だけど、イエス様が見つけて下さり、求めて下さり、必用として下さった。だから、私はちいろばだと。それだからこそ、大きな働きをなさったのだろうと思わされます。私は自分を何者だと思っているのだろうと、ふと思わされることがあるのです。キリストは小さな子ロバに、あなたが必要だと言われるのです。

その子ロバに運ばれるイエス様の前に、自分の上着を次々に敷いて、あなたこそ私の王ですと、かなり興奮気味にイエス様を王として迎えるパフォーマンスを行った人々は、しかし、イエス様がどういう平和の王であられるかを、果たしてわきまえておったのでしょうか。今の生活に不満と不安を抱えた人々が、力強い王や指導者を求めるという構図を、歴史はずっと見てきました。第一次大戦後の不況に喘ぐドイツ国民が求めた、アドルフ・ヒットラーしかりです。我が国に勝利と平和をもたらしてくれる王として、人々は彼を熱狂的に迎えんかったか。平和ボケの日本と呼ばれて久しいですが、もしも平和を、例えば君が代斉唱をせん者は追い出して、それで混乱が治まって平和になると、そのための強い王がおったら楽になると、そういう発想で考えるなら、それこそが平和をわきまえてないということでしょう。自分が平和になるために、他者に犠牲になってもらう。そりゃ、自分だって犠牲は払っている。ああ、私はこんなにも頑張っている。なのにその私の苦労も知らないで、私にストレスを与えるような者は、平和のために犠牲になって当然だという考えが第二第三のヒットラーを産み、戦争を産み、600万人のユダヤ人虐殺をただ違う形で繰り返し、この人が私にストレスを与える、この人がいなくなったら平和になると、自分の平和を求める発想で、人を殺すのではないでしょうか。そうやってイエス様も人々に殺されるのです。自分の平和を得るためにです。それが平和のわきまえでしょうか。そのわきまえは、むしろ私たちの日常の生活に不和と争いを増長させ、心に隠し持つ憎しみという殺人を正当化するだけではないでしょうか。

まさにそうした不和や争い、自分とは違う人への軽蔑を、そらだって私が正しいのだから仕方ない。当然じゃないか。だって彼らが間違っているのだからと堂々と人々を差別していたファイサイ派の人々が、またここに顔を出して言うのです。やがて十字架に付けろと叫び出す群集に先立つように、彼らはイエス様を睨むようにして言うのです。あなたの弟子たちは、あなたを王なるメシア、救い主だと勘違いしているようだが、まさかそんなはずはないだろう。だから弟子たちに間違っていると叱りなさい。さもなくば、あなたは自分自身をメシア救い主だと認めることになるのだが良いのか、と詰め寄る。

それに対するイエス様のお答えは、本当に知恵ある発言をなさるなあと思います。飛びぬけてイメージ豊かな答えでもあります。想像なさると良いと思います。けんど彼らが、ん、と口を閉ざした途端に、周りの石が一斉に叫び出すぜよと。まるで大きなくしゃみを我慢して、ん、と口を閉じたら、おへその栓がポンと抜けて、へっしょ~!とくしゃみするようなもんでしょうか。周りの人々もそれを聞いて、一層喜んで主をたたえ、天には平和!と歌ったのではなかったかと思います。

ところが都エルサレムの城壁がはっきり見えてくるにつれ、弟子たちは違う感動を覚えているのに、ふと見ると、子ロバのうえのイエス様がポロポロと涙を流して泣いておられる。しかも悲しそうに泣いておられる。もしかしたら、嗚咽されておったかもしれません。我慢のできない悲しみが込み上げて、歯を食いしばるようにして、ついに息を整えて目の前の都に向かい「もしもこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら」と言われる。先に群衆が歌った「天の平和」をたずさえ訪れたイエス様の道、天の平和の道を、しかし、この都の人々はわきまえていなくて、知らんので、異なる平和を求めているので、遠からぬ将来、都は滅亡を迎えるのです。子ロバを連れてくるに先立って、その一部始終を見て知っておられたイエス様が、ここでは40年後の西暦70年ローマ軍に反乱し滅びるエルサレム滅亡の姿を見て知って、たまらずに泣いておられる。エルサレムという名は平和の基礎という名だと言われます。エルサレムと言えば、人々は平和をすぐに心に浮かべた。その平和の都と呼ばれる町が、しかし平和の道をわきまえてない。それはキリストの名で呼ばれるキリスト者がキリストをわきまえてないようなショックをイエス様に与えたのでしょう。平和の道をわきまえてない平和の町は、それ故に、自ら信じる平和を求め、自分の正しさで人を踏みつけ、他人を裁き、それで平和を得ようとするから、同じ報いを得ることになる。憐れみのない正しさで自分が裁かれることになるのです。

でもそのように当然の報いを受ける人々のために、主は涙をポロポロ流されるのです。ご自分に敵対する者のためにです。あからさまな憎悪だけではないでしょう。無視するという敵対がキリストを十字架につけるのです。十字架が苦しくて泣いたのではない。ストレスに耐え切れず泣いたのでもない。自分を十字架につける人々が、しかし、その十字架を負うために訪れて下さった神様を、まったくわきまえてなかったが故に滅びてゆく。その姿が悲しくてポロポロと泣かれる。

それぞれに問うて欲しいのです。私のため泣いてくれる人がいるか、しかも本当の私を知ってです。私たちは数十年先に自分や他の人がどうなっているか、知る術もありません。数秒先すら知らないばかりか、今の自分がどのように生きているか、神様が私をどのようにご覧になっておられるかさえ、わきまえていると言えるでしょうか。人には隠すことができるのです。けれど神様にはお見通しです。子ロバがつながれていることも。つながれていない心の罪が、人知れず暴走していることも。そして、その報いが待っていることもです。一番親しい友も家族も知らない、あるいは自分でさえ、まだ大丈夫とどこかで思っている罪と汚れを、もう顔を上げることもできんぐらい知られてしまって、それでなお涙を流してくれる人がおるのでしょうか。いや、その取り返しのつかない罪と汚れの一部始終を全部見て知っておられればこそ、そのまま悔い改めることがなかったら、どんな報いを受けなければならないか、自分で平和の基礎だと思っているものが、全部崩れて、石一つ残らず滅ぼし尽くされて、すべてを失ってしまう裁きを、私たちが免れ得ないことを知っておられるから、涙を流してくださる方が、ただ一人すぐ側におられるのです。私たちの裁きの十字架を負うために、私たちを訪れてくださった神様が、涙を流して言ってくださる。わたしは来た。わたしはもうあなたを訪れているではないか。その訪れを知って欲しいと。

ロバの子に運ばれて訪れてくださった平和の主は、自己正当化のため裁くのでもなく、裁かないのが平和なのだとうそぶきもせず、十字架の上で、ご自分が身代りに裁かれることで、罪は罪として完全に裁いて、悪は悪として完全に処断して、裁かれ貫かれることによって、だから、あなたは赦されて良いと、罪の赦しの平和の主として、私たちを訪れてくださいました。それが罪人の平和の基礎、シャロームの王となってくださったイエス・キリストの平和なのです。

クリスマスの夜、羊飼いたちを訪れた天使たちが歌った賛美があります。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」これもまた神様の訪れを歌ったのです。キリストの訪れの賛美です。自分が正しい、私が正しいと、争い続ける罪から離れることのない地上が、どうして平和になりうるでしょう。でも考えてほしいのです。皆が正しく生きられるならきっと平和になるのです。違うでしょうか。問題は、誰一人正しくないことです。だから平和がないのです。その地にはない平和を歌ったのが、今日の群集賛美だと言えるでしょう。天に平和。自分自分では平和になれない私たちに、しかし神様がキリストをくださって、天の平和をくださった。これが平和の道である。キリストをわきまえたら、わかるのです。私たちも平和に生きられる道があるのです。キリストについていく愛の道、赦しの道、主の道がある。地には平和が、御心に適う人にあるのです。キリストの赦しのご支配をお運びする平和の子ロバを、主が必要としておられるのです。