11/6/19朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書18:18-34、箴言8章18-21節 「赦しを持っていますか」

11/6/19朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書18:18-34、箴言8章18-21節

「赦しを持っていますか」

 

永遠の命を受け継ぐためには、私は何をしたらよいですか、と問うたこの金持ち。以前イエス様の譬えを聞いたことがあったのでしょうか。ある金持ちが、しめしめこれだけの財産があれば一生安心して暮らせると思い高ぶっているところに神様が、愚かな人よ、今夜その命を取り上げられても、その財産はあなたのものかと問われた。この譬え話を聞いたとしたら、う~ん、確かにその通りや。命ばっかりは神様のもんや。ならば死んでなお復活して生きる永遠の命を受け継ぐためには、何をしたらえいがやろうか。どんな行いを満たせば良いかと、まるでキャリアアップを目指して資格を取る人のように、英検一級とか、そういう何をすればよいかを、この人は求めた。ま、できる人だったんでしょうか。できる人の発想だと思います。自分はそれをきっとできるから、じゃあ何をすればよいかと。そのことをすれば、自分もイエス様のように善い人になって、神様から永遠の命を受けられるのじゃないか。

イエス様は、その考え方は、けんどズレちゅう、欠けがあるぜよと、神様から認められる「善い」というのは、何らかの行いによって満たし得るようなものではないと、あえて指摘をされるのです。神様の愛のご支配の内に入ってないところで、その外で、いくらこの行いは善いとか言っても、神様から離れたところで人間が言ったりやったりしている、その善いは、独善的で独り善がりにしか過ぎんでしょう。もしも、私が親に向かって、私はこんなにも善い行いを外でしてきて、牧師にまでなって、刑務所でも人々の更正のためにお話しをして、あれもして、これもして…だから、私は善い行いをしているから、善い人間だから、当然この家の土地も財産も家督をも、私は受け継げるでしょうと親に言ったら、そんなにおんしが善い人間やったら、どういて父の日に電話の一本もよこさんかと、親に泣かれはせんでしょうか。命を受け継ぐ根拠は何か。親子の関係でしょう。戸籍上のとか法律上のというのは、言い方は悪いですが、遺産相続でもめたときに弁護士が出てきて、こうなっていますからと正しい手続きで出してくるもので、その正しさは、親子の愛の関係を保障はしません。天の父なる神様が私たちに求めておられるのは、では何か。ご自身との愛の関係に入っていること、そのご支配に、神の国に今入っていること以外の一体何があるでしょうか。

だからイエス様は、十戒の中でも神様に向き合って神様のためにすることでなく、人にすること、私は姦淫もしてないし、殺しもしてないしという掟のみ抜きだして、あなたはこういう掟を知っているでしょう、ここにこだわりがあるでしょう、違いますかと問われます。問われた人からしてみたら、よくぞ聞いて下さった、その通り!私はずっとここにこだわってきました、もちろん守ってきましたと言う。なのに、不安があるのです。私は死んで後、本当に永遠の命を受け継いで、神様が完全にご支配なさる永遠の神の国に、永遠に生きていくことができるだろうかと、そこで自信がないのです。良いことです。自分の死と死後に対して自分を信じている人は、神様に、あなたはどうして自信があるのかと永遠の裁きの座で問われるからです。この金持ちが、それ故イエス様のもとに来たのは良いことです。ならばこそ、イエス様もこの人に、なお一つあなたには欠けていると言われます。でもそれは、天国に入る試験があって、あと一問だけ不正解で足らんというのではありません。前に言いましたが、天国に入試はありません。入試はイエス様が代わりに受けてくださったから、あるのは面接ただ一つだけです。天地を造られ、私たち一人一人を造られた三位一体の神様が、その面接で問われます。わたしはあなたにとって誰であったか。あなたはわたしを知っていましたか。だからあなたは、このように生きてきたのか。厳しい面接です。微笑んでいられる人など一人もいません。そこでの唯一の救いは、赦しだということが、よくおわかりになられると思うのです。

だからイエス様はこの人に言われます。あなたに欠けている行いが、一つある。わたしについて来なさい。わたしの愛の支配のもとに飛び込んできなさい。そうやって、ここに来た神の国に入ってしまいなさい。あなたにとって財産がそれを邪魔するのなら、それを捨ててしまえばよい。自分の自分のという欲は捨てて、神様の神様のという愛に変えるために、その財産を貧しい人々に分け与えたらよい。あなたの天の父であり、彼らの天の父でもある、あなたの父は、それほどに愛に満ち満ちた方であるから、自分を捨てて隣人を愛する憐れみの業を、こよなく愛し喜ばれるから、そうやって、父の子として生きればよい。自分自分はもうやめて、父よ、父よと生きればよい。そこに神の国のご支配があることを、あなたは必ず知るようになるから、わたしに従ってきなさいと、主はこの人を招かれます。救い主をくださった神様のご支配、神の国に入りなさいと招かれるのです。

こう言えばわかりよいでしょうか。金持ちに欠けていたのは、神の国に入るために何かせないかんという条件ではなくて、欠けていたのは、神の国に入ることそのもの、神様の愛の御手に身を任せて、そのご支配に飛び込んでいくことでした。神様が御子を十字架につけられたのは、そのためです。その身代りの死によって、私たちの罪を身代りに裁いて私たちの罪を赦し、キリストを復活させて私たちの主とされて、だからこの救い主に従っていく者は、誰でも救われる、人間にはできないことも、あなたのために御子を十字架につけたわたしにはできる、あなたの罪は赦された、あなたはわたしのもとに来なさいと、神様はキリストを主としてお与えくださったのです。

だから、善い先生では足らんのです。善い生き方を教えてもらって、後は自分で頑張ってでは、自分の信じる善い裁かれ方を、裁き主である神様に押し付けることになってしまいます。こんなにやってきましたからと。でも、自分の命を一晩さえも先に延ばすことのできない人間が、どうして自分の努力によって神様の裁きから自分を救うことができるでしょうか。だから、神様が救われるのです。十字架で、罪人の身代りに死ぬことさえできた神様は、人間にはできないことも、神様にはおできになるのです。一緒に考えて欲しいと願います。人となられた神様は、人畜無害の人々のために死なれはしませんでした。当たり前のことではありますけれど、神様の愛を思うとき、ただ感情的に、私たちが幸せな気分にさせられたときは神様に愛されていると思うけど、そうでないときは、神様は私を愛してないとなってしまい、次第に、神の愛が知識や言葉だけになってしまうことのないためには、イエス様がご自分に敵対する者のために死なれたということの前に、何度も立ち直さないかんと思うのです。今読んだところでイエス様が弟子たちに言われたように、イエス様が死なれた人々は、ご自分を侮辱する人々です。乱暴な仕打ちを神様にする人です。唾をかけ、鞭打って殺す人のため、神様は地上に来られました。乱暴な言い方かもしれませんが、皆さんなら、地上に行くでしょうか。私たちがあるいは一緒の空気さえ吸いたくないと思う人のところに行って、その人の罪をさえ吸い取って十字架で身に受けて、だから、この人を赦してくださいと父なる神様に祈りうるでしょうか。イエス様が死なれたのは、その人のためです。イエス様から、わたしに従って来なさいと招かれて、悲しみもしない、胸を痛ませもしない人のため、その人の罪を背負って身代りに裁かれ死ぬため、まだ一滴の愛情すら、その人々から受け取ってないそのときに、敵意と憎しみと蔑みと傲慢な嘲り笑いの只中で、キリストが、父よ、彼らを赦してください、と、私たち罪人を愛されて死んでくださった。この愛と赦しがなかったら、いったい誰が救われるのだろうか。しかし人間にはできないことも神様にはできる。神様しかできんのです。その神様が言われるのです。あなたに欠けているものが一つある。わたしに従いなさい。この愛の支配のもとに身を置きなさい。キリストによってもたらされた神の国に、あなたも入って来なさいと、神様が招いておられます。こう言い変えてもよいでしょうか。神様が私たちにこう言っておられる。わたしはあなたを愛している。あなたは、わたしを愛するか。わたしのもとに、来てくれるか。

そのような神様であればこそ、愛に報いてもくださいます。報いを求めないのが愛かと思ったら、そうではない。ま、言い様にもよると思うのですが、言わば片思い主義とでも呼びうるような、一切の報いを求めないのが愛だという高尚過ぎる考えは、やはりどこか愛する自分に捕らわれているのではないでしょうか。そりゃ、愛する相手が、もし必要ならば悔い改めて、その人も愛に生きる人になって欲しいと、私たちが、互いに愛し合うことを求めておられる神様のご期待に、そうやって共に応えていきたいと願うのが、神の国の愛のあり方でしょう。無論、報いと損得をごちゃ混ぜにしたらいけません。スーパーのポイント五倍日に買物に行くように、何?後の世で何倍にもなるやったら、ほいたら家族も捨てたが得やと、まさかそんなことを言いゆうわけではありません。あるいは損得でしか考えれん弱さを持った人間に対して、だったらほら得やろうと、何とか、この愛のもとに来て欲しい、何とか罪から救われて欲しいと、弱さを考慮されてということも、ひょっとあるかもしれません。でもやはり、神様が愛そのものであられて、私たちを愛されて、その神様のご支配、神の国が愛の国であるからこそ、報いは当然あるのです。神は愛です。だから愛は必ず報われます。道徳的な愛の法則に従ってとかではありません。宇宙の因果律に従ってなどではありません。愛する御子を、ご自分に敵対し無視する人間のため、罪の身代りに裁き死なせてしまわれるほどに、愛そのものであられる神様が、あなたは、わたしを愛するか、そうか、愛してくれるのかと、全宇宙が揺らぐほど豪快に喜んでくださるので、愛は必ず報われるのです。貧しい人に分け与えるとき、神様は、それはわたしにしたのだと喜んで下さる。逆に、分け与えることをしないとき、それはわたしにしなかったのだと怒られる。その神様が、こんなにも愛である神様が、天の富そのものとして、私たちを招いておられます。わたしに従いなさい。これが神の国です。