11/8/28朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書20:20-26、エステル記3章1-5節 「人と神様に仕える」

11/8/28朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書20:20-26、エステル記3章1-5節

「人と神様に仕える」

 

皇帝のものは皇帝に、神様のものは神様に返す。自分のものではないのですから、人のものは人に返して、神様のものは神様にお返しする。人間として当たり前のことだとも言えるでしょう。例えばお金を誰かに貸して、全然返ってこざったら、どういうことかと思われるでしょう。ずっと前、ある教会を訪ねたとき、すまんけどタクシー代を貸してと、初めて会った青年に頼まれ、5千円貸したでしょうか。それから本当に何年もたってから、その方の顔も忘れた頃、すみませんでしたとの手紙と一緒にお金が返ってきたことがあります。その方は、ずっと心に重いものを感じながらの年月を過ごしてきたのかも知れません。ついに良心の呵責に耐えれんなったか、祈りの中で神様の語りかけを頂いたのか、これはやっぱり自分のものではないから、返さなければならないと、心打ち砕かれる経験をされたのではないかと思います。

私たちにとって、神様のものって何でしょう。単に心の問題、良心の問題だけではないでしょう。無論、良心を誤魔化して逃げるところに、神様からの逃避があるというのは、どなたもご異存はないと思います。アダムとエバからそうでした。神様のものを奪った。でも、良心だけでしょうか。アダムとエバは、一つでも神様から頂いたものでない何かを持ち得ておったと言えるでしょうか。それは、アダムとエバに限った話ではないと思います。キリストが私たちに向かっても語っておられる、神様のものを返しなさいって、一体どういうことでしょう。

例えばこれは神様のものでなくて、皇帝カイザルのものという何かがあるのでしょうか。これは、この世のもので、これはあの世、というか神様のもの、という分け方があるのでしょうか。お金は汚いからこの世のもので、そりゃ教会も献金があるけど、あれはこの世で例えば会堂や伝道費がいるから献金はするけど、最低限の必用を満たせば、要は心の問題だから、お金ではなくて気持ちがあればと考えがちなのかもしれません。でもそうやって宗教はあの世のこと、あるいはあの世に行く心に関することで、そういうものは神様に返して、宗教的な思いや良心や、礼拝儀式とか祈りとか、そこだけに神様のものを限定し、宗教の領域、神様の領域を仕分けして、後はこの世の領域だという考え方なら、気分的に借りが少なくなるということでしょうか。けれど私にお金を返した青年は、少し神経が過敏だったから、たかが5千円くらいと思えなくって返したのだとは、私は思えないのです。それなら神経が太ければよいのです。忘れっぽいのが幸せなのです。だけど神様のご支配はそうではないので、預言者が次々と遣わされ、神様のものは神様にと、御言葉はずっと語られてきたのですけど、拒まれてきた。そして神様は人となられて、私たちのところに来てくださった。それが今日お読みした御言葉の直前の御言葉、ぶどう園と農夫の譬えで、主が語られたことでもありました。私たちが自分のモノだと思っているこの命は、神様のものではないのかと、だから、神様による収穫の日が来る前に、あなたの造り主に立ち返り、悔い改めて救いを得なさいと語られた。今日の御言葉は、その続きです。

イエス様の語られる悔い改めのメッセージを快く思わなかった人々、律法学者や祭司長たちは、そこでイエス様を、この世の権力を代表するローマ総督の支配と権力に引渡そうと、知恵を練ります。神様のものを神様に返すことに、非常な困難をおぼえるときに、ほぼ必ずと言えるほど登場する人間の知恵でしょうか。御言葉の通りに神様のものを神様に返しよったら、この世ではやっていけんと、この世の力を登場させて、この世の支配にひれ伏す。支配と訳された言葉は、アルケーという言葉で、うんと価値があるという意味から、最初にくるものという意味になり、最初のものですから、後に続く者を従える支配者とか、支配を意味するようになった言葉です。こっちの支配こそ、御言葉の支配より最初に考えるべきなんだと、どうも思っていると言うのです。この世の支配こそ、やっぱりこの世で生きていく上では価値がある。そりゃ死んだらあの世の価値に移り換えないかんけど、この世で生きている内は、この世の価値が、この世の支配と権力が、実際は最初にくるのではないのかと、思ってしまいやすい弱さがある。頭では、神様が上で、この世の価値なんてと正しく理解していながらも、だけど神様より低い価値ではあっても、実質価値があると認める。だから、この人々も、この世の力を利用して、イエス様を黙らせようとするのでしょう。この世の中で生きていたら、この世の支配の利用価値は自ずとわかってくるのです。力があって、財力があり、能力があって、頭がよくて、ルックスがよくて、そういう力を持っちゅう人が、やっぱり支配してないでしょうか。親の力とかコネがあるというのも、実力主義ではないにしても、力には変わりありません。そういうこの世の支配、権力が、この世ではモノを言うのだと、これを嫌っている人々でも、認めざるを得んものがある。律法学者、ファリサイ派の人々は、祭司長たちとは違い、ローマ権力を嫌っていましたし、神の都エルサレムを支配するローマ帝国に税金を納めるなんて腹立たしいと思っておった。が、支配の力は認めざるを得ない。しかし認めるが故に、これと真剣に闘うというのではないのです。逆に利用して、神様のご支配、神の国を語られるイエス様を、黙らせようとして知恵を練る。それは結局、国籍がローマではないだけで、この世の支配に屈しているのではないでしょうか。うんとわかりやすく言えば、ローマ人であろうとユダヤ人であろうと、自分の願いを叶えるために、この世の力を信じているなら、この世に支配されているのです。

その支配が、税金によって、お金の納め先によって代表されているのは注目に値します。私たちが如何なる支配にひれ伏しているかが、お金の納めどころで露見するのです。特にルカは、イエス様がお金と支配について繰り返し教えてこられたことを丁寧に述べます。それを私たちも繰り返し聴いてきましたから、おそらくお金の使い道が変わってきただろうと思うのです。主は、あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ、と12章で言われました。それは主が、あなたがたは、どのような支配を求めているのかと問われたのです。一体何の支配に、あなたはお金を納めているかと、私たちがひれ伏している支配を問われた。それはその御言葉が語られた12章31節から聴くとよくわかります。「ただ、神の国(神様のご支配)を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国(神様のご支配)をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」同じ恵みを、主は今日も言うておられるのです。神様のものを、神様に返しなさい。

私たちは、お金を代表するこの世の支配から、自由になれるのです。神様のものは、神様にお返しすればよいのです。キリストが、この世の支配から私たちを自由にしに、神様のご支配そのものとして、この世の只中に来てくださったから、わたしに従いなさいと招かれるイエス様に従って神様のために生きられる。そこに神様のご支配が現れています。自分の願いを叶えるために、この世の支配に屈するのでも、あるいは、神様を利用しようとさえするのでもなく、神様のものを神様に返して、自分を捧げて、神様の救いの御心に生きるところに、この世の支配からの自由がある。私たちは、もっと本当は自由なのです。

税金は無論、納めてください。ただ、納める理由は変わるでしょう。皇帝のものも神様のものです。この世の支配には屈しませんが、この世の務めは果たすのです。神様の子として、神様の僕として、この世に証を立てて生きる。キリストを下さった神様は生きておられると、私たちは、この神様に救われて生きられるのだと、イエス様に倣う自由な僕として生きていく。生きる目的が変わります。神様のご支配に生きられる自由が、十字架で与えられているからです。

神様から頂いた恵みの数々に支えられ、今を生きている私たちの命を皆いつか神様にお返ししなければならないことは、誰もが知っていることだと思います。そのとき神様が言われるのです。わたしのものは、どこにあるのか。命って、封筒に入れて納入できません。仮に入れられたとして、それは残金に過ぎんでしょう。あるいは残金がなくなったので神様の前にいるのなら、それは使用明細であるかもしれません。神様のものを、私はこうやって使用しましたと。その中に、神様に返してきた命もあるはずです。神様のために生きてきた時間が、神様のために捧げてきたお金が、神様のために涙した苦しみが、この世の支配の只中で、神様のものを神様にお返しして、あなたこそ私の命の主ですと、神様にひれ伏し、お返ししてきた、神様のものが明らかにされる。そのときにしかし、あなたはわたしのものを滞納していて、多くの負債を負っていると、一人でも言われない人がいるのでしょうか。誰もが、神様に滞納し、負債を抱え、返すべきものが未だに、未納のままなのに、更に未納が重なって積もり積もって、どうしようもなくなっている現実を、神経を太くして無視したり、忘れたり、この世の支配に逃げ込もうとして罪を重ねる。その私たちの重荷を十字架で負われて、神様が負債を払いきられることがなかったら、どうやって私たちはこの負債から自由になれるのか。だから神様が来て下さって、人となられて、私たちの身代りとなって十字架で死なれ、私たちの支払いきれない滞納を、全部支払って下さって、あなたの罪は赦されたと、自由を与えて下さったのです。

私たちを罪と裁きとから自由にするため、神様はキリストを私たちの代表として与えてくださり、この世の支配が行き着く先、死者の中から復活させて、あなたもこれからは、神様の子供として生まれ変わって、復活の自由に生きなさい、この世の支配に抗って、わたしのものとして生きていきなさいと、救いの恵みを下さったのです。

ここに神様のご支配があります。キリストによって約束された恵みのご支配の只中で、私たちは神様に、すべてをお返しできるのです。

11/8/21朝礼拝説教@高知東教会 詩編139篇1-12節、ヨハネの手紙一1章5-10節 「闇の中でも神様の光が」

11/8/21朝礼拝説教@高知東教会

詩編139篇1-12節、ヨハネの手紙一1章5-10節

「闇の中でも神様の光が」

 

先週、水木金と西日本教会青年同盟の夏の献身修養会を行ってきました。そこに参加する青年たちが、真剣にイエス様に従いたい、主の道を歩んでいきたいと、御言葉を求め、交わりを大切にする姿には、いつもながら励まされます。できた子たち、というのではないのです。それぞれに悩みを抱え、生きにくさ、弱さ、また罪に悩んでおればこそ、神様と向き合い、人と向き合い、自分と向きあうことができるのかもしれません。楽な人生を生きたいと思えば、そりゃ向き合わないことを選ぶのが、人間の弱さではないでしょうか。逃げる。今、忙しいきというのもあるでしょうか。何かに忙しく没頭することで逃避するということもあると思います。色んな逃避を人間はやっている。そのことにも、まあ、向き合いたくはないでしょう。ただ、逃げられるうちは、という限定つきだと思います。おそらくそんなに遠からぬ内に、付けが回ってくるのです。そしたら結局は苦しくなる。人との付き合いや、社会的なこと、しなければならないけれどもやりたくないこと、自分自身に対しても、そうではないかと思うのです。真実に自分と向き合うよりも、逃げたいと思ってしまわんでしょうか。夢の自分を夢見ているのは、若者だけに限らんと思います。そんな大きな夢ではなく、これをしなくてもよかったらよいのにとか、これから逃げても大丈夫ならよいのにと、逃げられない現実、あるいは責任から、それでも逃げようと夢を見る。これって卒業する時があるのでしょうか。

すぐに心に浮かぶのは、死の時であるかもしれません。死ぬまで直らんという言葉も使われたりします。確かに死んだら、もうこの世で色々とやらないかんことから逃げる必要はなくなります。この世の様々なしがらみから解かれるというのも確かです。その意味で、死は自由をもたらすと言えないこともないと思います。けれど今読みました詩篇の言葉は、たとえ死んでも神様は、そこにおられる。どこに行っても神様がおられる。たとえ、この世のすべてのものから逃げおおせても、そこにもどこにでも神様がおられる。どうしてか。神様は、私を究め、知り抜いていて下さっているからだ、と言うのです。私を知っておられるから、だから、離れることができんのだという。それって、どういう知識でしょう。私から片時も心を離さず、いつも私を知っておられる。しかも、私以上に私をご存知で、私が自分では見たくない、逃げたい、向き会いたくないと思っている、いわば私の闇の部分まで、知って、向き合ってくださって、それであきれられて捨てられるのでなく、まったくなく、だからなおのこと私を導き、とらえてくださる。それほどに私を知っておいでの、神様がおられる。

皆さんが、一番知っている人って、どなたでしょう。この人についてなら、世界中で私が一番よく知っている、ということもあるかもしれませんが、むしろ、自分が知っている多くの人々の中で、私が一番知っているのはこの人、という人。どなたでしょう。その人って、自分の愛する人ではないでしょうか。複雑な感情もあるかも知れません。私たち、ロボットではないですから、愛しているのに、怒りを覚えるってことだって、当然あります。テレビの人気番組で、初めてのおつかい、というのを見たことがあります。小さな子供が初めて一人でおつかいに行って帰ってくる一部始終を、その子にわからんようにテレビカメラで撮るのですけど、途中で買った中身を急な坂道の上から落として、また下まで取りに行って、また頑張って登ったり、ビニール袋を引きずって破れて手におえんなって泣いたりと、涙なしには見れん場面が人気の原因かとも思います。が、相手が小さな子供だから、泣いたり微笑んだりできるのかもしれません。もし私が自分の愛する人の一部始終を知りえたとしたら、いや、私の今までの一部始終が誰かに知られたとしても、それでも何もなかったように愛せるか。その人から、また自分から逃げないで知り続けることができるか。なら、知るということは、向き合うということでしょう。それ以外に、どうして誰かを知りうるでしょうか。

単なる物知りなんて、ここでは部外者です。そもそも物知りの知識は部外者の知識です。仮に人間全般についての博覧強記の物知りが、野口さん、あなたはこうこうこういう人間のようだから、こういう風に対処したらよいと、私に教えてくれたとして、私は教えたから、後はあなたの自己責任だから、このありがたい知識を実践して、あとはあなたが頑張りなさいと、それで終わってしまうなら、その人は、私の何を知っていると言えるのでしょうか。私に向き合ってくれてない人の、私についての正しい知識は、部外者の知識に過ぎんでしょう。違うでしょうか。ところで自戒を込めて申しますが牧師はその危険性を持っています。人間についての、罪人についての、神様についての、知識を教えて楽するという堕落の急斜面が、いつも両脇にあるとも言えます。教会は、その堕落に敏感である必要があるでしょうし、そのためには、この急斜面が無論、牧師の両脇にだけあるのではないことをわきまえて、自分に向き合う必用があります。教会は、物知りの神様などは信じてないことを、お互いに知り合うということで確かめるからです。教会は聖徒の交わりを信じるということを、文字通り、お互いに向き合って知り合うことで告白する。知り合うというのは単純ですけど、掛け替えのない、神様の愛を知る道でもあるからです。インターネット時代の一方的で愛のない知識から、自分自身も、また愛する人をも守るため、神様の愛に倣うのです。相手と向き合い、その人を知ることを大切にする。

神様は私たちを愛しておられます。単純過ぎる言葉かも知れませんけど、何度も言います。神様は私たちを愛しておられて、いつもどこでもどんな時でも、私たちに、逃げない愛によって向き合っておられます。そして、確かに導いておられる。私たちはこの愛によって生きられるのだと、この愛に倣っても生きられるのだと、この愛に一緒に生きていこうと、招き、確かに導いておられる。あなたが今どんな状態にあろうとも、あなたがどこにいようとも、あなたは、わたしの前にいると、主の御手が私たちを導きます。どんなに神様から離れたと思っても、そこに神様はおられます。その思いやあきらめや不信仰さえ、知っておいでの神様です。それでも私たちを愛される全知全能の愛ゆえに、ただ一方向に向かって導かれます。私たちの唯一の救いであるご自分の恵みへと、私たちを導かれているのです。

その神様から逃げたいと、なおも思ってしまうなら、私はどうかしているのでしょうか。神様が愛して下さるのは、ありがたいけど、この点に関しては、関わりをもって欲しくない。色々言われたりしたくない。そういうときって、神様を意識するんじゃないでしょうか。でも、意識したくないから、どうするかって言うと、逃げる。要するに、考えないことにする。意識しながらも。自分の意志を固くするというか、それを聖書は、頑なになると言いますが、考えないように、えいって実行に移すのでしょうか。実行に移すことを止められんかったから、だから、と言い訳することさえあるかもしれません。神様に導かれるって、自分で何も決めんでかまんようになるということでは決してありません。私がやっぱり決めるのです。そしてその責任を問われるのです。えいって、あるいは無表情で闇の中に飛び込んでいくとき、既に導かれている神様の導きに背いてやっていることは、わかっているのではないかと思います。牧師も例外ではありません。意外に思われるか、とっくに知っちゅうと思われるか。それはそれで牧師としてどうかとも思いますが、人に隠すことができるが故に、闇に留まってしまうなら不幸です。人には隠れているから大丈夫だと思うなら、私は自分にだまされています。闇に目を見えなくさせられてしまっていて、本当は危険だと意識しながら、まだ大丈夫だと思わされてしまう。いや大丈夫じゃないと知っていて、裁きがあると知っていてもなお、罪を犯してしまうのです。使徒パウロの言葉を思い出します。私は自分のしていることがわかりません。それが私ではないでしょうか。そのどうしようもない罪の私を、知っておられて、だからこそ憐れまれ、キリストを、その私たちの身代りに十字架に釘打って、まるで神様の前から逃げることができない私たちのように釘打って、貼りつけて、面と向き合って、あなたが背負ったその罪の故に、あなたは恵みから見離されて死ななければならないと、キリストを裁いてくださった。キリストの命を私たちと引換えにしてくださった。この神様が、私たちに常に向き合ってくださっているのです。キリストもまた、その私たちのために、十字架でこうおっしゃってくださった。父よ、彼らを赦して下さい。自分が何をしているか知らんのです。向き合うことができんのです。だから、神様が向き合ってくださいます。私を知ってくださいます。私が大丈夫ではないことを、それゆえに、私の身代りになって死なれるキリストが、私にはどうしても必用であるということを、そしてキリストに結ばれたなら、あなたは大丈夫だということを、神様は全部ご存知で、前からも後ろからも私を囲み、キリストを私に与えてくださり、ただ信じよ、と呼びかけてくださる。キリストを信じて、いのちを得よ、罪の中でも赦されて、キリストの光に照らされて、わたしの前に導かれよと、福音の言葉をくださるのです。何度も何度でも、夜でも昼でも、闇の中であればなおのこと、キリストの光に照らされよ、それがあなただ、赦された者よと、つかんでくださる。

この知識こそが、人間の思いを遥かに超えて、理解したと思ったら、スルリとすり抜けていくような、あまりに高くて到達できない驚くべき福音の知識です。だから、でしょうか。福音はいつでも信じるのです。理解できない神様の愛を、罪赦されて生きられる恵みを、イエス様と言って信じればよい。わからんけれども、助けて下さいと、主の名を呼べば、よいのです。「主よ、あなたは私を究め…あまりにも高くて到達できない。」(1b-6節)その高いところからキリストが来て下さって、すべてを捨てて来て下さって、そこに導いてくださいます。そして神様に向き合えるのです。私から逃げないと決めてくださった、恵みの神様に向き合えるのです。

11/8/14朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書20:9-19、詩編118篇22-25節 「捨てられた神様」

11/8/14朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書20:9-19、詩編118篇22-25節

「捨てられた神様」

 

イエス様はご自分を、神殿の隅の親石に譬えられます。木造日本家屋で言えば大黒柱とも言えるでしょうか。この会堂なら、この梁でしょうか。ところがこの梁は、この会堂を建てる大工さんが、こりゃ、使えんと一度捨てた材木だった。自分のイメージ通りのがやないといかんと捨てられた。例えばこの梁に太い裂け目がバーッと走っておったら、素人見には不安になりそうです。実際3㎜程の亀裂があります。ただし木を良く知る大工によれば乾燥して硬い証拠だそうですので、安心して座っていて頂きたいですが、本物の強さの意味を知らぬまま、自分の強さや正しさにこだわって、本物を捨てることってないでしょうか。神様の愛を、捨てていることってないでしょうか。

イエス様はこの譬えを、民衆に話されました。ともすると当時の宗教指導者たち、権力という力に居座っている人々に対してのみ、そうだ、そうだ、イエス様、もっと言うちゃって下さいと、他人事のように聞いてしまうかも知れんところで、民衆は、自分のこととして聴くのです。ぶどう園のイメージは、旧約聖書で好んで用いられた神の国のイメージでもあります。あ、神の国のお話や、神様のご支配の中におる人の譬えや、私はそこに入っちゅうろうか、聴きたいと、すっと聴き入ったのかもしれません。皆、自分のこととして聴いた。でも、その言わば悲観的過ぎる結末に、そんなことがあってはならなりませんと、神の国の話に引き込まれてはいくけれど、受け入れられない。権力者、学者や祭司長たちも、これを自分のこととして聴きます。そして主を殺そうとするのです。自分のこととして聴くというのが、御言葉を聴くうえでの大前提ですが、自分のこととして聴いたとしても、そこで自分の考えと違うておったら、どちらを信じるか。自分か、それとも神様か。

神様の言葉を信じない人間の姿が映し出される、まさしくそこで語られたのが、その私たちを、え~と言う程に信じられる神様のお姿です。違うでしょうか。ぶどう園の主人は神様です。そこで働いているのは私たちです。今までイエス様は私たちを神様から命を預けられた管理者として語られてきました。命だけではない。子供もそうだし、親もそうでしょう。自分で選ぶことはできんのです。命の実りを、神の国の実りをもたらすようにと、神様から何にも任されておらん人は一人もおりません。それを、まるで自分のモノであるかのようにふるまうとき、世界は罪人の国になりさがります。本当は神様の家族が、命の実りを分かち合う、神様の農園であるのにです。その農園に神様は、ご自分の僕を遣わされる。袋叩きにされて追い返されても、何かの間違いじゃないかと、また別の僕を遣わします。今度は侮辱までされる。お前、神様の言いなりか、犬かとか言われて殴られたのでしょうか。それでも三度目の正直とでも言わんばかりに、もう一人また送る。送られる僕も偉いと思いますが、今度は大傷を負わせられる。そこで、もう堪忍袋の緒が切れた!とならんのです。僕たちの負わされた傷や侮辱を何とお思いなのでしょう。そんなにも、農夫たちのことを愛しておられるのでしょうか。主人は、どうしようかと思い悩んで、そうだ、わたしの愛する独り子を送ろう。そしたら僕の言葉や態度や立ち振る舞いを見ても思い出さなかったわたしのことを思い出して、わたしとの関係を取り戻してくれるに違いない。だってこの我が子ならわたしにそっくりで、わたしそのもので、そしたら彼らもわたしと契約を結んだことを思い出して、独り子をも敬ってくれるに違いない。もしそうでなければ、わたしを敬ってないことになるが、いや、そんなことはないだろう、そんなことは決してあってはならないと、独り子を農夫たちのもとに送られた。

この世の常識から考えたら、この主人は、言葉は悪いですが、どうかしています。繰り返しご自分の言葉が拒まれて、侮辱までされて、傷をも受けて、僕が追い返されているのにもかかわらず、愛する独り子を、送りますか?私なら、自分の子を送ることはできません。農夫たちが、この子を敬ってくれるろうとは信じられんからです。前に米国にいたときですが、ちょっと問題があって世話していた十代の女の子が、最近会った青年から誘われたから行ってくると夜出かけようとするので、私が行って、その青年に会いました。何もしないから信じてくれとごねるので、夜中に未成年者を呼び出す男を俺は信用できん。もし正式に結婚を前提に誘っても俺が常に一緒ぜと言うと、クレイジーと言って出て行きました。だって信用できんもんはできんですよ。なら独り子を、罪人の只中に送られた神様の、そして御子の、罪人一人一人に対する思いは、どうかしているのではないでしょうか。けれど神様は、たぶん、に賭けられて、たぶん敬ってくれるろうと、独り子を農夫たちに渡された。

そして農夫は論じ合います。あってはならないほう、たぶんではないほうについて、すぐに考え始めます。言い訳をするとか、正当化するとも訳し得ます。論じ合うですから、ねえ、そうでねえ、と自分の意見を後ろ盾してくれる考えにも乗っかりながらでしょうか。そして神の子は自分たちのもとに来んかったことにする、と決めた。そしたら神の国を好きなように取り扱えるからと、考え、実行した。

主は言われます。彼らには、その決断と実行に相応しい裁きがくだされるだろうと。厳しい言葉です。だからでしょうか。民衆は言う。そんなことがあってはなりません。裁きがある、ということがでしょうか。私たちを救いに来られた方を、なかったことにするということがでしょうか。自分たちがそんなことするはずがないということであるのなら、数日後彼らは自分に裏切られます。彼らが主を十字架につけるのです。裁きの予告を聴いたのに、あるいは聴いたからでしょうか。そんな厳しい裁きを聴くのが怒りに変わったのでしょうか。

けれど聖書で随所語られる厳しい言葉を避けるとき、私たちは十字架のキリストを避けるのです。なら、どこに救いを求めるのでしょう。厳しい裁きがあるからこそ、御子なる神様が人となられて、私たちの裁きを受けに来てくださった。私たちの身代りとなられて、十字架の上で、また陰府で、神様の恵みのご支配から捨てられてさえ下さって、言わば地獄に捨てられて、だから、あなたは捨てられないですむようにと、私たちの身代りとなられに来て下さった。厳しさを引き受けて下さった。なのに、その厳しさを避けるなら、キリストの愛がわからんなります。厳しい裁きが語られるとき、そんなこと、あってはならないと逃げたくなるとき、でもならばこそ、キリストが逃げないで、私たちを見つめられて、言われるのです。人間にとって、神様の裁きは、どうかしちゅうと思われるかもしれない。そんな神様の裁きを聴かされるよりは、捨ててしまったほうがいいとすら思うかもしれない。しかし、その捨てられた裁きを神様は拾われて、あなたたちの救いが全部よりかかる大黒柱に釘打ったじゃないか。独り子を身代りに裁かれて、それで救いを果たされる神様、そのために救い主を十字架に渡される神様、そこですべての罪を負わせて、赦しを与えて下さる神様、そして、それ故にこそ、罪人の裁きを、厳しく遂行もできる神様、十字架にすべてを寄りかからせて救われる神様を、あなたも十字架を仰ぎ見つめてほしいと、主は私たちに求められているのです。裁きの十字架を負われた愛に凝縮される主の厳しさにつまずき落っこちてしまうのでなく、生きているものと死んだ者とを裁かれるため、十字架の主が再び天から来られる裁きの日まで、先送り先送りにするのでなく、今、主の前に立てるのです。立って主の名を呼べば良いのです。人間は捨てられたキリストに救われるのです。

11/7/31朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書20:1-8、申命記18章15-22節 「強がる弱さ、認める強さ」

11/7/31朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書20:1-8、申命記18章15-22節

「強がる弱さ、認める強さ」

 

人は自分を保証してくれる何かや誰かを求めながら生きているのではないでしょうか。一時流行った、あなたはそのままでいい、というのもおそらくそこに含まれるのでしょう。まったく逆に、あなたは全ての罪を赦されて、神様の子供として新しく生き直してよい、というキリストの福音も、確かに私たちを保証するのです。

その福音を、色んな角度から、広く深く具体的に、イエス様は人々に教えておられたのだと思います。神殿の境内はこの時、まさしく神様のフィールドであったと言えるでしょう。神様のフィールドで神様の救いの御言葉、福音が語られ、人々が熱心に耳を傾けている。神殿本来の姿が、このとき取り戻されていたと言う人もいます。

ところが、その福音が気に入らん人々がおりました。当時のユダヤ教最高議決機関、横文字でサンヘドリン、訳して最高法院と呼ばれておったの人々の癪に障りました。福音がです。何で俺が悔い改めないかんかと、私はこのままでいいじゃないかと、イエス様の教えられる福音に、パシッと耳を閉ざし、いかつい顔をして、代表数人で肩を並べてやってきた。福音そのものが気に入らんかったのでしょうか。神様は罪人を愛され憐れまれ、罪の赦しをくださるが、逆に憐れみのない高ぶる者には悔い改めを求められるという福音が、何でなと気に入らんかったのか。あるいは、それはまあ言わばもっともだから、神様から言われるのなら聴くかもしれんけど、この男から聴くのは癪に障るということでしょうか。じゃあどうやって聴くのでしょう。そもそも、どんな福音を聴きたいのでしょう。そこに罪の姿が出てきます。洗礼者ヨハネがヨルダン川で、悔い改めて、罪の赦しの洗礼を受けなさいと、人々に洗礼を授けておったときにも、あれは罪人や弱い人々がやるもんで、私は関係ない。洗礼によって保証されんでも、私は自分を保証するものを持っている。じゃあそれって一体何なんでしょうか。

この人々について言えば、自分たちは正しい権威によって保証されていると信じていたに違いないのです。最高法院のメンバーです。先生と呼ばれるような人々であり、それなりの努力もしてきたのだろうと思います。その意味で、彼らが権威にこだわるのはわかります。自分たちを保証する権威の根拠を、見ての通り、私は持っているけれど、あなたの権威の根拠は何か、見せろと、イエス様に向かって問いかける。

そこでイエス様は逆に問われるのです。あなたを保証するその権威。ヨハネの洗礼は、私には関係ないと思わせるほどに、あなたを保証するその権威というのは、神様に保証されている権威であるのか。それとも単なる人の権威か。あなたがもし今日ここで死んで、神様の裁きの前に立つとなっても、あなたを守り、あなたを保証し、この権威の故に私は立ち得ますと、すがりつき信頼できる権威の出所を、あなたはわきまえていますかと主は問われます。数日後すぐにも十字架で死なれるために天から来られたイエス様が、答えなさいと言われるのです。

人からの権威は、言わば、制度によって保証された権威と言えるでしょうか。例えば、人々に罪の赦しの洗礼を授ける権威を委ねられた牧師になるにも制度があります。日本基督教団の場合、何年もの準備期間と数々の面接と試験とに合格して按手礼を受ける。が、ここが急所です。いかに丁寧な制度でも、人を自動的に牧師にはできません。当たり前のことですけれど、どうして当たり前なのかが身についてないと、結局、人の権威で人を振り回し、自分も振り回されるということになってしまいやすいと思うのです。どうして制度やルールや決まり、人の権威は、神様からの権威を自動的には保証しないか。何故なら神様との関係はいつでも、信頼関係だからです。どんなにルール自体が正しくても、真実に結ばれた人格関係がなかったら、不正です。例えば、洗礼を受けたら神の家族になると言いますが、信頼抜きで、単に戸籍上の家族でかまんか。そんなはずはないでしょう。けんど戸籍上家族になれば、赦しとか清めとかのドナー移植ももらえるしと、そんな制度上だけの家族というのは、人間関係であっても、違法であって不正です。違うでしょうか。神様は信頼を求められます。わたしはあなたを救うと信じるか、信じて信頼関係の中を共に生きるかと求められる。キリストをくださった神様を信じるとは、そういうことです。神様と信頼関係を持つということです。少なくともそういう神様なのだと信じて、その神様との信頼関係に向かって、この身を洗礼に委ねるのです。信仰すなわち信頼なしの洗礼はありません。幼児洗礼だって、親や教会の信仰と、この子を信仰へと導くために仕えますという約束を必ず伴います。だから洗礼準備会で準備するのは、この福音の神様を信じますか、信頼して身を委ねますかという一点です。

ところで洗礼を受けるのに試験はありませんが面接はあります。神様との面接に先立つ面接だとも言えるでしょうか。洗礼の場合も牧師になる場合も、どうしても必要なのが面接です。何故いるか。どうして本人の希望をそのまま聞いちゃったらえいじゃかと言えんのか。そこでこそ信頼関係が問われるからです。この人が、どういう神様と向き合っておって、またどういう向き合い方をしているか、それを真剣に問わなかったら、自動的な洗礼や職業牧師を認可することになります。信仰は自己責任ではありません。家族の一員として生きることが、その本人だけの責任で、それをめいめいが自分の役割を自己責任で果たすのではありえないのと同じです。神様との信頼関係が愛のない自己責任にならないために、主は人を、言わばヘルパーとして用いられます。信頼するということが、私個人のことでなく、自分の外に出て、相手に任せることが、信頼するということだからです。だから、見えない神様を信じる保証として、自分の外にいる誰か、洗礼者ヨハネであったり、牧師だったり、長老達という、自分ではない人々を主が私たちとの関係に招き入れられます。そして神様と面接するように、嘘のない、自分自分だけで終わらない、真実に神様と向き合う信仰の道を与えられる。それが神の家族、教会に与えられている愛と信頼の道なのです。そこで行われる面接は、面と面が接し、顔と顔を合わせて、その人の人格に向きあうものです。この人は信頼できる。嘘は言ってない。もちろん完璧ではないけれど、ならばこそ、この人を主に信頼してお任せします、主よ、憐れんで下さいと、互いに自らを主の御手に委ね、アーメンと祈る。

無論、面接という制度があれば、そこに信頼があると保証されるわけでもありませんが、だったらと言って、面接を適当にするなら、人間の権威になるのです。すぐなります。面接だけじゃなく、どんな人間関係だってそうでしょう。信頼関係を求めないで、たとえ面倒だと思っても自分の外に出て相手を信頼するということを蔑ろにしたら、関係は自動的になり、罪の威力が蔓延する、人間の権威が始まります。俺が俺が、私が私が。口論になったり、だんまりを決めたり。間違った保証に飛びついて、人の権威と自己正当化で自分自身を保証して。でもそうやって神様に打ち砕かれることのない、そのままの私は、何をわきまえているのでしょう。キリストを十字架につけられた神様の権威、愛の権威を、どうしてわきまえていると言えるでしょうか。

イエス様が、この人々に求められたのは、一方的な質問の振りをした非難、糾弾ではなく、真実に向き合うことでした。彼らが要求するように主がお答えにならなかったのは、もし真実を語っても、信じてくれんからでしょう。よくわかることだと思います。信じてくれん人に何を言っても、意味がないと思ってしまう。だって、求めているのは、正しい答えを理解してもらうことでも、相手を説得し勝ち誇ることでもなく、信じてもらいたいということです。わたしはあなたのことを思っているということを、信じて欲しいということでしょう。信頼関係の中でこそ対話も生まれ、相手がわかって、誤解も解けて、自分が変えられていくという奇跡も起こります。対話せず、相手を信じず、自分の外に出ることがなかったら、頑なになるばかりです。それを変えるのが信頼です。自分を本気で変えたいと思ったら、この人は信頼できるという人を見るのです。その人の信仰と悔い改めを見ればよい。あの人は本気で、自分を捨てて、権威を捨てて、神様を信じている。なんか本当に神様がすぐ側におるみたいに、愚かなほどに信じている。そういう人を無視できるでしょうか。

だから大勢の人々が、イエス様だけでなく洗礼者ヨハネをも、無視できんかったのだと思うのです。ヨハネは人々に、罪の赦しの洗礼を説きました。悔い改めの恵みを説きました。あなたは神様の赦しのもとで、変わることができるという神様に対する信頼を説いた。祭司長たちは、それとは全く反対の道を選び、自分を捨てて神様を信じるという選択を退けて、自分を守ろうとして権威を選んだ。問題は、悔い改めの道を選んで、洗礼を受けた人々であっても、この後、何日もせんうちに、主を十字架につけて殺してしまう人間の権威を、選ぶようになるという罪の威力です。罪の威力という人間の権威に、人は容易に屈してしまう。でもならばこそ、キリストは、黙して十字架に進まれるのです。たとえ、わかってもらえなくても、それでも愛し続けて、接し続けて、きっと、わかってくれるようになると、信じて十字架に進まれるのです。洗礼を受けても、なお罪に負け、罪の威力に屈する私たちが、それでもその罪を赦されて、神の子とされて救われて、新しく生き直すことができるのは、このキリストに結ばれるからです。それが洗礼であり、信仰です。キリストは私を見離されない。イエス様、どうか私をお救いください。この信仰を神様は喜ばれ、そうだ、わたしはあなたのために、キリストを十字架にはりつけて、あなたの罪を全部赦したと、救いを保証してくださるのです。

ここに神様の招きがありますと、洗礼者ヨハネと一緒になって、私たちもキリストを指さすのです。罪の赦しの洗礼を、神様を信じる信仰を本気になって証していく。そこに神様の権威が証されます。キリストを与えてくださった赦しの権威、愛の権威、救いの権威が現れるのです。

11/7/24朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書19:45-48、イザヤ書56章1-8節 「礼拝で心の向く先」

11/7/24朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書19:45-48、イザヤ書56章1-8節

「礼拝で心の向く先」

 

境内で商売をしていたと聴かれて、季節柄、沢山の屋台ですとか出店ですとかを想像された方もおられるかもしれません。ま、イカは汚れた食物だとされているのでイカ焼きの店はなかったはずですが、ここでの商売はもっと宗教的商売だとも言えるでしょうか。お寺さんで言えば、火をつけて鉢か何かに立てる線香を境内の売店で売ってるのに近いかもしれません。当時の神殿礼拝では羊や鳩などの生贄を捧げます。近所であれば家から連れても来れるでしょうけど、遠く離れたガリラヤ地方や北アフリカからも巡礼の人々は来ておりましたので、流石に一緒に連れては来れない。で、神様ももちろんと言いますか、それには配慮をなさっておられて、礼拝で必用な捧げ物は当地で買うてえいき礼拝に来なさいと申命記に記されています。ならば売ったり買ったり自体が悪いと、イエス様、言われているのではありません。どうしてそれを神殿の庭でやろうと思うか、他でやったらえいじゃいかと、わかりやすく言えば、ここは特別な場所であることが、どうしてわからんと問われるのです。ここでは神様に向き合って、罪の赦しの御言葉を聴いて、悔い改めて、自分を捨てて、神様に自分を捧げて祈る。この人生の一大事に集中するため、その他一切は他でやりなさいと、それ自体が悪いことではなくっても、一番大切なことを一番の座から奪ってしまうなら、そしてもはや特別大切なことでなくなってしまうなら、それは強盗だ、奪っているのだと言われます。それだけ礼拝は別格だと、あるいはそういう礼拝を捧げてなかったら、少なくとも、そういう礼拝の心で神様に向き合うことをせんかったら、そこにいるのは、罪の赦しを神様に求め、悔い改めて祈る人でなく、自分の好きなように奪う強盗じゃないかと、厳しくも、真実の礼拝を求められるのです。

礼拝という言葉に、もしも手垢がついてしまっているなら、真実の愛と言えば良いでしょう。神殿で捧げられる生贄は、わたしのことを指し示していたと、神様ご自身が人となり、十字架で私たちの罪を赦す犠牲となられた。その神様の愛を聴き、その愛を自分のこととして向き合って、誤魔化さない。目をそらさない。それが真実の愛、礼拝です。少し乱暴に言えば、相手が神様なだけで、真実の愛を生きようと思ったら、相手が人同士でも、誤魔化しを入れたらいかんというのは、当然のことだと思います。これぐらいならかまんろうという自分に対する誤魔化しも、相手に対して嘘をつく、あるいは言うべきことを言わんという誤魔化しも、重ねていくうちに麻痺します。お互いに麻痺してしまったら、なあなあの関係になるのでしょうか。あるいは一回の誤魔化しで、関係が壊れることだって少なくないと思います。壊れてもそこで罪に居直るのが真実でしょうか。そういう真実の捕らえ方もやはり強盗に奪われているのだと思います。真実の愛なら、誤魔化しがあったら悔い改めて、たとえ全部正直に言えなくっても、悔い改めて、新しく嘘なく愛していこうと今までの態度を変えようとする。内向き、自分向きだった我儘な態度を、相手向き、相手のために生きる態度へと、何度も何度でも悔い改めるのが、真実に愛するということでしょう。

ちょっとミーハーになりますが、先日の女子ワールドカップの決勝戦を夜再放送で見まして、グッと来ました。ご覧になられた方もそうじゃなかったかと思いますが、とにかくあきらめないのです。ゴールされそうになるたびに、フィールドの中央におったキャプテン澤が戻ってきて守りに加わって、ゴールに転がり込むぐらいに走ってきて、ダンダンと走ってきて、チャンスになったら敵陣に走って行って、全然止まらん。どんな32歳かと唖然としていたら、あ、後半ゴールを決められてしまった。ああ、キャプテン、あんなに走りよったのにショックやろうなあと思ったら、カメラに顔が映って、全然、心が折れてない。選手を励まして、またダンダンと走り回って。最後勝ったのも嬉しかったですが、何より、あきらめないという気持ちに、私は励ましを受けました。どうしてそこまであきらめないか。仲間があきらめないで走っているからか。仲間を裏切ることができないからか。自分が引っ張っていかないかんと思った、仲間への愛故か。あるいはサッカーへの愛故か。でもガンガン走ってヘトヘトの場面で、愛とか、サッカーラブとか、そういうのではないでしょう。むしろ、あきらめないというところにこそ、愛が真実な形をとって、現われたのじゃないかと思うのです。

神様との関係は、なら、どうか。真実の関係をあきらめてはないか。イエス様はここで、厳しくも真実の礼拝を求めておられると先に言いました。では、その誤魔化しをしないで真実に神様に向き合っている愛の形って、どこに現れてくるとイエス様は言われるのか。祈りだと言われるのです。先に読みました、イザヤ書56章の御言葉を引用されて「わたしの家は、祈りの家でなければならない」と、礼拝に祈りがなくなってしまうとき、それは礼拝ではなくなってしまう、礼拝が強盗に奪われてしまうのは、祈りが奪われてしまうときだと言われる。無論、当時神殿で祈りが唱えられてなかったはずはないと思います。立派な祈りですらあったろうとも思います。でも祈りって、これも愛と言い換えることができるでしょう。立派な愛の言葉なら言えるのです。それで教会に人が来ることだってあると、感動しさえするかも知れないと、私は自分自身そうなってはいないかと畏れを抱きながら思うのです。でも神様は心を見られます。私たちの態度を見られます。真実はそこにあるからです。真実な祈りは心にあります。そして心は態度に表れてくるのです。ボロボロになってもあきらめないとか、つまずき倒れて嫌になっても、主よ憐れんで下さい、立ち上がらせて下さって主の後をついて行かせて下さいと、主の名を求めるところにです。あるいは、これぐらいはかまんろうと、あきらめや、妥協や、自己弁護、自己正当化に現れるのが、態度の真実ではないでしょうか。どうせなら神殿の境内で商売をする方が、楽やし、神殿で売りゆう生贄はご利益があると思われて売れるかもしれんと、また神殿を管理する祭司長たちも、そうしたら境内地借用の利益も上がるしと、考えておったのかもしれません。だから、神殿のためになるのだから、これっくらいはかまんのだと。

イエス様はその態度を、強盗だ、あなたは神殿を神様の家ではなくしてしまって、神殿、神殿と呼んでいるだけの自分たちのための家として強盗した挙句、神様への捧げ物までも奪ってしまった、あなたは祈りを強盗したと言われるのです。

改めて、真実な祈りって何でしょう。心の底から嘘のないことを願えば真実な祈りになるのでしょうか。欲望を欲望のままに開き直るようにして、これが真実の私ですと、まるで本音と建前に自分を分けて、公の場で祈るのが建前で、本音は…、本音は罪の開き直りだと言うのなら、そこで神様の目に映っているのは、神様に造られた真実の私を罪に強盗されてしまった、奪われた私の姿なのです。私の心も、この体も、神様が聖霊様によってお住まいになることを望まれた祈りの家であるのだとローマの信徒への手紙は慰めを与えますし、また聖餐式のたび毎に祈ります感謝の祈りで、同じ手紙の12章から、こう祈るのです。今、聖霊の助けにより、感謝をもって、この体を生きた聖なる供え物として御前にささげます。私たち、主の体の肢である自覚がいよいよ深くなり、ますます励んで主に仕えることができますように。これは建前でしょうか。決してそうではないのです。これが本音で祈れるようにと聖餐式の冒頭で勧めの言葉が語られます。ふさわしくないままでパンを食し主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。また、主の体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くと勧められています。かえりみて、おのおのの罪を深く悔い改めなければなりません。このようにして信仰と真実とをもって聖餐にあずかりましょう。真実をもってとは何か。ふさわしくないままで聖餐にあずかってはならないとは、どういうことか。神様が人となられ、この私の罪を全部身に引き受けられて十字架にぶら下がり、わたしがあなたのための罪の赦しの生贄になるから、あなたはわたしを信じて生きよと、キリストが罪を負って下さった。この赦しの恵みがなかったら、私はどうしようもないのだと、何度も何度でも、キリストよ、憐れんで下さい、神の小羊よ、私を憐れんで下さいとキリストの赦しを受けるふさわしさをもって、十字架の前で祈るということでしょう。この十字架の上で一度限り神様が捧げてくださった生贄によって、イエス・キリストの死によって、私の罪は赦されて、神の子とさえしていただいて救われるのだと、こんな私でも救われるのだと、神様の愛を信じて祈る。この祈りがあればよいのです。赦しを求める悔い改めの祈り。神様が私をやり直させて下さるとキリストの憐れみを信じて祈る祈りを、主の名を呼んで祈れば良い。

あきらめなくってよいのです。神様があきらめられてないからです。だから本気で関わってくださるし、悔い改めを求められるし、もし強盗の巣窟になっても、強盗は出て行け、罪は全部追い出せ、わたしの家は祈りの家でなければならない、そうだろうと、あきらめず、何度も何度でも訪れてくださいます。あなたはわたしのものではないのかと、真実の愛をもって訪れてくださる。

だから神様に向き合えるのです。真実に向き合うことさえできるのです。しばらく前の説教で、イエス様のなさった譬えを覚えておられますでしょうか。二人の人が祈るために神殿に上った。一人は、罪の赦しも主の憐れみも、祈りに上って来ない立派なファリサイ派。もう一人は、神様に顔を上げることさえできないままに、こう祈った。神様、罪人の私を憐れんでください。神様から、あなたはわたしの家にいるのにふさわしい、あなたの祈りは、この祈りの家にふさわしいと受け入れてもらって家に帰ったのは、この人であるとイエス様は言って下さいました。神様の前から、この祈りを取り上げて奪うのが強盗です。神様の前に、祈りを教えてくださるのが救い主です。我らの罪を赦したまえと、ただただ主の御名を呼んで祈る、十字架の恵みを受けるにふさわしい者として、あなたはわたしの家にいなさいと、主が呼びかけて下さるのです。

11/7/17朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書19:28-44、ゼカリヤ書9:9-10 「十字架への道、平和の道」

11/7/17朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書19:28-44、ゼカリヤ書9:9-10

「十字架への道、平和の道」

 

王様にも、二種類あるように見受けられます。民の先頭に立って進まれる王と、安全な城から命令だけを下す王。キリストは、私たちの先頭に立って進まれました。振り返られたろうかとすら思います。十字架への道、平和の道を、たとえ一人として後に従う者がなかったとしても、キリストは、進んで行かれたに違いないのです。

ただ、唯我独尊、他の人など我関せずというのでは無論ありません。人々と共に進まれます。後にご自分に向かって、十字架につけろと叫ぶ人々であったとしても、この人々のためにこそ進まれるのです。悔い改めて、信じればよいからと、共に、しかも先頭を切って歩んで下さる。

その途中で、ロバの子を必要となさいます。どうして馬ではないのでしょう。せめて親ロバのほうが楽じゃないでしょうか。楽をしようと思ってであれば、そもそもエルサレムには行きません。十字架で死ぬために、人となられることもなかったでしょう。十字架のためのクリスマスです。今まさに、その十字架のエルサレムの前にいるのです。

先に読みましたゼカリヤ書9章9-10節の預言の言葉。これをイエス様は人々にわきまえて欲しかったのだと思います。どういう王として主が来られたか。人となられた神様の訪れとは一体どのような訪れなのか。エルサレムは、わきまえてなければなりませんでした。「…」9-10節。

戦争のための馬ではなく、まるで平安時代の貴族のように楽に寝そべって運んでもらえる牛車や御輿に乗ってでもない。一般の人が荷物や人を運ぶロバ、しかも小さな仕事しかできんに違いない、小さなロバの子でかまんから、いや、この子をこそ、わたしは望むからと、背の低い子ロバをキリストは求められます。婦人会の姉妹方が、新しく礼拝に来られた方々に、どうぞまた来てくださいと渡す小さな本があります。この子ロバから取った題名で、ちいろばという本です。著者の榎本保郎牧師は、それはもう馬車馬のように伝道された方でしたが、私はこの小さな子ロバだ、こんな小さなつまらない者だけど、イエス様が見つけて下さり、求めて下さり、必用として下さった。だから、私はちいろばだと。それだからこそ、大きな働きをなさったのだろうと思わされます。私は自分を何者だと思っているのだろうと、ふと思わされることがあるのです。キリストは小さな子ロバに、あなたが必要だと言われるのです。

その子ロバに運ばれるイエス様の前に、自分の上着を次々に敷いて、あなたこそ私の王ですと、かなり興奮気味にイエス様を王として迎えるパフォーマンスを行った人々は、しかし、イエス様がどういう平和の王であられるかを、果たしてわきまえておったのでしょうか。今の生活に不満と不安を抱えた人々が、力強い王や指導者を求めるという構図を、歴史はずっと見てきました。第一次大戦後の不況に喘ぐドイツ国民が求めた、アドルフ・ヒットラーしかりです。我が国に勝利と平和をもたらしてくれる王として、人々は彼を熱狂的に迎えんかったか。平和ボケの日本と呼ばれて久しいですが、もしも平和を、例えば君が代斉唱をせん者は追い出して、それで混乱が治まって平和になると、そのための強い王がおったら楽になると、そういう発想で考えるなら、それこそが平和をわきまえてないということでしょう。自分が平和になるために、他者に犠牲になってもらう。そりゃ、自分だって犠牲は払っている。ああ、私はこんなにも頑張っている。なのにその私の苦労も知らないで、私にストレスを与えるような者は、平和のために犠牲になって当然だという考えが第二第三のヒットラーを産み、戦争を産み、600万人のユダヤ人虐殺をただ違う形で繰り返し、この人が私にストレスを与える、この人がいなくなったら平和になると、自分の平和を求める発想で、人を殺すのではないでしょうか。そうやってイエス様も人々に殺されるのです。自分の平和を得るためにです。それが平和のわきまえでしょうか。そのわきまえは、むしろ私たちの日常の生活に不和と争いを増長させ、心に隠し持つ憎しみという殺人を正当化するだけではないでしょうか。

まさにそうした不和や争い、自分とは違う人への軽蔑を、そらだって私が正しいのだから仕方ない。当然じゃないか。だって彼らが間違っているのだからと堂々と人々を差別していたファイサイ派の人々が、またここに顔を出して言うのです。やがて十字架に付けろと叫び出す群集に先立つように、彼らはイエス様を睨むようにして言うのです。あなたの弟子たちは、あなたを王なるメシア、救い主だと勘違いしているようだが、まさかそんなはずはないだろう。だから弟子たちに間違っていると叱りなさい。さもなくば、あなたは自分自身をメシア救い主だと認めることになるのだが良いのか、と詰め寄る。

それに対するイエス様のお答えは、本当に知恵ある発言をなさるなあと思います。飛びぬけてイメージ豊かな答えでもあります。想像なさると良いと思います。けんど彼らが、ん、と口を閉ざした途端に、周りの石が一斉に叫び出すぜよと。まるで大きなくしゃみを我慢して、ん、と口を閉じたら、おへその栓がポンと抜けて、へっしょ~!とくしゃみするようなもんでしょうか。周りの人々もそれを聞いて、一層喜んで主をたたえ、天には平和!と歌ったのではなかったかと思います。

ところが都エルサレムの城壁がはっきり見えてくるにつれ、弟子たちは違う感動を覚えているのに、ふと見ると、子ロバのうえのイエス様がポロポロと涙を流して泣いておられる。しかも悲しそうに泣いておられる。もしかしたら、嗚咽されておったかもしれません。我慢のできない悲しみが込み上げて、歯を食いしばるようにして、ついに息を整えて目の前の都に向かい「もしもこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら」と言われる。先に群衆が歌った「天の平和」をたずさえ訪れたイエス様の道、天の平和の道を、しかし、この都の人々はわきまえていなくて、知らんので、異なる平和を求めているので、遠からぬ将来、都は滅亡を迎えるのです。子ロバを連れてくるに先立って、その一部始終を見て知っておられたイエス様が、ここでは40年後の西暦70年ローマ軍に反乱し滅びるエルサレム滅亡の姿を見て知って、たまらずに泣いておられる。エルサレムという名は平和の基礎という名だと言われます。エルサレムと言えば、人々は平和をすぐに心に浮かべた。その平和の都と呼ばれる町が、しかし平和の道をわきまえてない。それはキリストの名で呼ばれるキリスト者がキリストをわきまえてないようなショックをイエス様に与えたのでしょう。平和の道をわきまえてない平和の町は、それ故に、自ら信じる平和を求め、自分の正しさで人を踏みつけ、他人を裁き、それで平和を得ようとするから、同じ報いを得ることになる。憐れみのない正しさで自分が裁かれることになるのです。

でもそのように当然の報いを受ける人々のために、主は涙をポロポロ流されるのです。ご自分に敵対する者のためにです。あからさまな憎悪だけではないでしょう。無視するという敵対がキリストを十字架につけるのです。十字架が苦しくて泣いたのではない。ストレスに耐え切れず泣いたのでもない。自分を十字架につける人々が、しかし、その十字架を負うために訪れて下さった神様を、まったくわきまえてなかったが故に滅びてゆく。その姿が悲しくてポロポロと泣かれる。

それぞれに問うて欲しいのです。私のため泣いてくれる人がいるか、しかも本当の私を知ってです。私たちは数十年先に自分や他の人がどうなっているか、知る術もありません。数秒先すら知らないばかりか、今の自分がどのように生きているか、神様が私をどのようにご覧になっておられるかさえ、わきまえていると言えるでしょうか。人には隠すことができるのです。けれど神様にはお見通しです。子ロバがつながれていることも。つながれていない心の罪が、人知れず暴走していることも。そして、その報いが待っていることもです。一番親しい友も家族も知らない、あるいは自分でさえ、まだ大丈夫とどこかで思っている罪と汚れを、もう顔を上げることもできんぐらい知られてしまって、それでなお涙を流してくれる人がおるのでしょうか。いや、その取り返しのつかない罪と汚れの一部始終を全部見て知っておられればこそ、そのまま悔い改めることがなかったら、どんな報いを受けなければならないか、自分で平和の基礎だと思っているものが、全部崩れて、石一つ残らず滅ぼし尽くされて、すべてを失ってしまう裁きを、私たちが免れ得ないことを知っておられるから、涙を流してくださる方が、ただ一人すぐ側におられるのです。私たちの裁きの十字架を負うために、私たちを訪れてくださった神様が、涙を流して言ってくださる。わたしは来た。わたしはもうあなたを訪れているではないか。その訪れを知って欲しいと。

ロバの子に運ばれて訪れてくださった平和の主は、自己正当化のため裁くのでもなく、裁かないのが平和なのだとうそぶきもせず、十字架の上で、ご自分が身代りに裁かれることで、罪は罪として完全に裁いて、悪は悪として完全に処断して、裁かれ貫かれることによって、だから、あなたは赦されて良いと、罪の赦しの平和の主として、私たちを訪れてくださいました。それが罪人の平和の基礎、シャロームの王となってくださったイエス・キリストの平和なのです。

クリスマスの夜、羊飼いたちを訪れた天使たちが歌った賛美があります。「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、御心に適う人にあれ。」これもまた神様の訪れを歌ったのです。キリストの訪れの賛美です。自分が正しい、私が正しいと、争い続ける罪から離れることのない地上が、どうして平和になりうるでしょう。でも考えてほしいのです。皆が正しく生きられるならきっと平和になるのです。違うでしょうか。問題は、誰一人正しくないことです。だから平和がないのです。その地にはない平和を歌ったのが、今日の群集賛美だと言えるでしょう。天に平和。自分自分では平和になれない私たちに、しかし神様がキリストをくださって、天の平和をくださった。これが平和の道である。キリストをわきまえたら、わかるのです。私たちも平和に生きられる道があるのです。キリストについていく愛の道、赦しの道、主の道がある。地には平和が、御心に適う人にあるのです。キリストの赦しのご支配をお運びする平和の子ロバを、主が必要としておられるのです。

11/7/10朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書19:11-27、申命記30:15-20 「忠実な僕は報われる」

11/7/10朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書19:11-27、申命記30:15-20

「忠実な僕は報われる」

 

この譬えで、王と認定されて帰ってくるため遠い国へ旅立ち、やがて王として帰ってこられたこの人。この人が、全能の父なる神の右に着座なさって、この世の終りに再び帰って来られる神の御子イエス・キリストご自身であられることは、話の展開からもおわかりになられるのではないかと思います。神の都と呼ばれていた言わば総本山エルサレムに近いエリコの町に、いよいよイエス様がやってこられた!さあ、この方こそユダヤの民に神の国の勝利をもたらしてくれる救い主メシア、ギリシャ語でキリストだと、大勢の人が一種興奮状態にあったのでしょう。けんど、そのキリスト信仰はそりゃどうぜよと、中身を吟味してごらんと、イエス様が、まこと冷静に譬えを話して聞かされた。この時イエス様、エルサレムのゴルゴタの丘の十字架で、人々の罪の赦しのための犠牲となって死なれるまで、もう何日もありませんから、一層真剣だったろうと思います。いきおい厳しい裁きの警告も出てきます。当然でしょう。神様に敵対して何ちゃあ裁かれんということがあるでしょうか。でもその裁きをこそ、イエス様は十字架の上で引き受けて死なれる。だから、こうなってくれるなと必死で訴えておられます。

譬えの中にイエス様以外に登場するのは、僕と敵対者の二グループです。敵対者の代表格と言えば、当時の宗教的エリート、こんなに頑張りゆう自分らあが救われんはずがないと高ぶっていたファリサイ派の人々でしょうか。イエス様に、高ぶる者は退けられる、自分を正しいと言うのなら、どうして憐れみがないのかと、どんな神様を信じているのかと叱られて、既にこの時、イエス様を殺す計画を着々と進めていました。自分の正しさを認めてくれずに、自分を捨てて悔い改めて、他者への愛とか父の憐れみとか言うイエスらあて、救い主として、王として認めるもんかと敵対していた人々に、その人々に向かっても、憐れまない人は自分自身憐れみのない裁きを受けることになるから悔い改めて欲しいと真剣な訴えがなされているのは、聞き漏らすことができんと思います。

もう一方のグループは、僕グループあるいはイエス様の弟子グループなんですが、褒められる僕と、怒られる僕とに分かれると主は言われます。エリコに集まった群衆は、そのままエルサレムまでついて行って、イエス様万歳、王に祝福があるようにと、来週の箇所で叫んだ弟子たちの群れと同じでしょうか。そうやって賛美をしている弟子たちであれば自動的に褒められる、とはイエス様は仰っておらんのです。むしろその群集の多くが、どうもイエス様は、自分の考えている救い主じゃないと判断するや否や、十字架につけて殺せと叫ぶ敵対者になる。キリストを十字架につけるのです。

イエス様が言われる「僕」という言葉。説教題にもしましたが、ボクではありません。ひょっと電停横看板の説教題を読まれた人が、忠実なボクは報われる、いかん、ここの牧師は自惚れちゅうと思われてないか、ちょっとドキドキしているのですが、僕です。教会では馴染みの言葉のはずですが、いや、ものすごい重要な言葉なのですが、どうでしょう。私にとって、私は主の僕であるという生活が、自分の最重要課題となっているでしょうか。少なくとも、その自覚を持っているかいないかで、生活は全く違ってくるのです。生き方への態度、特に人への態度と言葉が、違ってくると思います。

僕は自分のために生きません。無論、そうは言っても罪という自己中や欲望、私私というミニファリサイ派が体の中に住んではいます。が、それと闘う態度があれば、そしてその態度がどんなに弱くても、けんどこれはイエス様がくださった態度やき、イエス様が私に求めておられるがやきと、イエス様、憐れんで下さい、聖霊様、力を下さいと、主の名を呼んでいるのなら、たとえ弱くて負け続けても、どうしてその人が僕でないでしょう。またその僕が、どうして同じように苦しんでいる人々を見下すことができるでしょう。むしろ、その人のもとに寄り添って、主の憐れみのもとに、一緒に導くことにならんでしょうか。そうやってイエス様が、あなたがたはわたしの証人となると約束してくださった。キリストは、僕である王として、十字架で死んでさえ下さった。だから私も自分を捨てて、僕として、神様にお仕えしていこう、イエス様が身をもって示してくださった僕としての生き方によって、キリストの愛と救いとを証しようと、僕は神様のために生きるのです。

この世では、神様のために生きると聞いても、漠然と雲を掴むような言葉に聞こえるのかもしれません。教会では、それは態度に表れます。キリストを私たちにお与え下さった神様の僕として生きているかどうかは、具体的に見えてくるのです。僕ですから、仕事というよりは奉仕でしょうか。無論、この世のお仕事や家事であっても、それを奉仕として行っているかどうか。また僕ですから、どんな態度で奉仕しているか。そこに神様のために生きる僕の姿が見えます。どんな神様に仕えているか、どんな神様を信じているのかが、態度を通して見えてくるのだと、イエス様は、これを譬えのイメージに託して、具体的に私たちに問われます。悪い僕は言うのです。あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、何もしませんでした。自分に対するこの評価を聞いた主人は、目をパチクリさせたんじゃないでしょうか。誰ぜ、そりゃ?どっからそんな嘘情報を得たがぜ?と。イエス様が実際にこの譬えを語られたとき、そういう表情をされたんじゃないかなと、私はイエス様、うんとユーモアのある方だと思っているので、そうじゃないかなと思うのです。そんなにも強欲な主人だと思うがやったら風呂敷に包んでしまっておかず、銀行に預けて利子をもろうたらえいじゃかというくだりは、聞いていた人々も、笑って聞いたんじゃないかと思います。そうよ、主人のためを思ってやったら、銀行に預けたら良かったわ。要するに、主人のためと思ってないき、そのまま放っておいたがやろう。それに主人が本当に欲深かったら、自分で銀行に預けるろうし、なのにどうして僕に託したかを、主人の気持ちを、この僕は考えてなかったがよと、きっとわかったろうと思うのです。

それにしても、主のために何もしなかったこの僕は、どこでこんなにも悪い主の評価、判断を得たのでしょう。その判断が悪いので、この僕の態度と生活は悪くなって、主のために何もせん生き方を続けてきて、決算を受けることになるのです。でも、主が悪いと言われた悪の理由、この僕が裁きを受ける理由を主は「その言葉のゆえにあなたを裁く」と言われます。行動、行いを裁くのでなく、どうして主のために生きなかったか、その態度が現れた言葉のゆえに、あなたは裁きを受けることになると言われる。あなたは本当にわたしを、自分の得しか考えてない冷血な悪代官のように思ってきたのか、ずっとそのように見てきたのか。口うるさくて、小さな失敗も見逃さず責め立て、これで仕えているつもりかと、これで献げているつもりかと、完全主義を振りかざすようにして、実のところ、そんなのは完全に愛と憐れみの欠如した欠陥主義で、ただの威張りん坊。そんな者だと思われていたのか。しかも、あなたが言うのには、預けてないものまで取り立てて、いわれのないことで責められて、責任を問われて、言いがかりをつけられ、盗まれ、搾取され、強奪される、わたしがそういう主であったから、何もしないことにしておいた。それなら銀行に預けて利子を増やして、それでいい訳をしたらよいのに、あなたのは、言い訳になってないから、僕として生きてこなかったのを、わたしのせいにして逃げようとするから、だからあなたを裁くと言われる。それが、他の僕が褒められた理由の対極、忠実の反対ではないでしょうか。忠実でも誠実でもない。不実で卑怯な僕だから、裁きを受けると言われるのです。

主に忠実である僕とは、私たちが罪深い者であるにもかかわらず愛の誠実を尽くされる神様に対して、卑怯にならないということでしょう。十字架を見上げて嘘をつかないとも言えるし、十字架から目をそらさないとも言えるでしょうか。誠実な人の目を見たときに、目をそらしたくなる気持ちと闘う、神様に嘘をつかないで礼拝をする。それが僕の戦場ではないでしょうか。自分のためじゃなくて良いのです。神様のために生きたら良いのです。それが隣人のために生きる誠実な人生であり、自分に誠実な生き方でもあると、本当は知っているのです。それでも罪がうずきだし、私、私が出てくればこそ、主も、これならわかりよいだろうとお金儲けの譬え話を出してこられたのかもしれません。ここがその私、私の費やしどころだと、ここに投資すれば良いのだと。一人一人に与えられた1ムナは自分と考えたら良いでしょうか。皆、同じ1ムナを与えられ、皆同じ。これを増やしなさいと言われます。どんな自分をでしょうか。私を私のために費やすのでなく、主のために費やす生き方です。じゃあ主はどのように、ご自分を費やして下さったか。十字架で、罪を赦すため死んで下さった。罪人を愛し、貧しい人々を憐れまれ、神の国は近づいた、この神様の愛のご支配のもとに救われなさい、福音を信じたらよいのだと、人々の救いのために費やしてくださった。それは消費され浪費され、なくなったでしょうか。まるでそのように見えたとしても、無駄に愛したと思うことが仮に私たちの側にあったとしても、神様が十字架によってもたらしてくださった愛のご支配、罪の赦しと憐れみの神の国は、決して費やされ消えてしまうことはないのです。むしろ増えるのが神の国、罪に逆らって増えていくのが、神様の僕の御国であるのです。あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。そう仰ったイエス様が、これは、小さいことのように見えるけど、この小さな業にかけてごらんと励まして下さる。誠実に神様を愛し、隣人を愛して生きてごらん、そうやって神様の僕として生きることで、わたしの弟子を増やしなさい、そこに御国は来る、神様の救いのご支配が来るのだと、キリストが約束をして下さいます。神様が求めてくださるのです。神様の僕としての生きざまを、この地にキリストの愛の僕が増えることを。わたしを信じて、救いに生きよと、主がお求めであるのです。

11/7/3朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書19:1-10、詩編106編1-5節 「この人も救われる」

11/7/3朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書19:1-10、詩編106編1-5節

「この人も救われる」

 

思いもかけず名前を呼ばれることがあります。例えば、今がそうかもしれません。突然名前を呼ばれたら、びっくりされるでしょうし、周りの人は、え?あ、寝よったが?って思われるでしょうか。授業ではないので、そういう呼び方はしませんが、私は二度、授業中居眠りをしよって名前を呼ばれたことがあります。頭では、まずい、はっきり返事をせないかんと思っていても、体が起きてないので、はい…とやたら小さい声で返事をして、うんと恥ずかしかった覚えがあります。けれど、名前を呼ぶほうからしたら、うんとその人が気になるのです。名前を呼びたくなるのです。米国ではAre you with me? 私と一緒にいますか?と尋ねられることもあります。私と一緒にいてほしいのです。神様だって同じお気持ちです。ご自分の前から失われて欲しくないのです。

ザアカイは当時イスラエルを支配するローマ帝国の言わば手先として税金を同胞ユダヤ人から取り立てる徴税人として、皆から嫌われていたばかりでなく、言わば自分の信仰を売り、神を売った罪深い人間だと、徴税人は会堂に礼拝出席することを禁じられてすらおったようです。皆ザアカイは失われておったと、おそらくザアカイ自身ですら、疑ってなかったのではないかと思います。ザアカイも、ひょっとするとローマに支配されるイスラエルの神なんてと思っておったかもしれません。神様よりも今の生活の豊かさとかのほうに、もっと関心がある現代人と案外近い感覚でしょうか。けれど未練もあるのです。神様を完全否定しているわけでもない。エリコの町に、イエス様がやってこられたという話を聞いて、見たいと思い立つのです。単に奇跡を行うというだけでなく、自分たちのような徴税人と食事を共にしたり、弟子の中には元徴税人だった者までいると、聞いておったんじゃないかと思います。皆から嫌われる私たちのような者と友になったり、弟子にまでするとは、一体どんなお方かと、本当に救い主であるのなら、一体どんな救い主かと、関心がある。関心。信仰とまでは、いかんかったのではないかと思います。群集をかき分けて主の前にひれ伏して、というのではなく、先週の盲人のように、私を憐れんで下さいと叫ぶのでもない。けれど、心で個人的関心を持っているだけというのでもない。どれだけの関心かと言うと、イエス様を見に行ったのだけど、ん?あれ?ちょっと、イエス様が見えん、全然わからんという状況で、まるで下手な説教を聞かされたような状況でしょうか。じゃあと木に登ってまでもイエス様を見たい。案外、イエス様への関心は強い。本当は、自分でも気づかんかったほどだったかもしれんくらいに強かった。イエス様から、今日あなたの家に泊まるき、すぐに降りてきてと言われたら、喜んですぐに降りて来るぐらいですから、本当は、イエス様のもとに行きたかったのです。あるいは呼ばれて初めて私はこんなにも神様を求めていたのかと、いや、神様が私を求めて下さっておったのかと、その愛が、こんなに嬉しい愛だったなんてと、自分でも初めて気づいたのかも知れません。そういうものじゃないかと思います。本当は、この愛に皆会いたいのです。神様が私たちを求め続けておられるからです。ましてやイエス様を無視できないで木の上にさえよじ登ったザアカイを、神様は決して通り過ぎられることはありません。それは人からあれこれ思われようとも、教会に行くようなものかもしれません。それでも礼拝に行くのです。その人がイエス様から呼ばれてないはずがあるでしょうか。

でも信仰があるかもわからんしと、思われるかもしれません。けど、信仰があろうとなかろうと、神様との愛の交わりから失われておったら呼ばれてないはずがないのが、キリストをくださった神様の愛です。ないはずがないって、ややこしいですが、つまり絶対にあるのが神様の愛です。信仰は、この愛に名前を呼ばれていることを受け入れ、ハイってイエス様の言われる通りにすることです。まずはイエス様の前に行くことです。教会で言えば、イエス様の前にひざまずいて、洗礼を受ける。そしたらもう、単なる個人的関心ではなくなります。イエス様が私の名前を呼ばれる声に、お応えして歩む人生が始まります。主と共に生きる人生、神様に愛されて永遠に生きる人生、それが十字架の赦しを全身で受けて、恵みによって救われる人生です。

その愛と救いを、キリストは胸一杯に満たされて、すべてのザアカイに言われます。ザアカイ、急いでわたしのもとに来なさい。今日この日に、わたしはあなたの人生に宿をとらなければならない。新共同訳は、ぜひ泊まりたいと訳しましたが、直訳は、泊まらなければならない、です。神様の決意が伺える言葉とも言えます。それはまた呼びかけられている私たちに対して、決意を求めておられる言葉とも言えるのです。わたしはあなたの人生に、今日、共にいなければならない。そうではないか。いつ来るかわからない明日ではなくて、今日、あなたの家に救いは来なくてはならないのだと、キリストは私たちに、今日、この日、名前を呼びかけてくださる。そしてザアカイは、急いでと言われる主の言葉に、そのまま急いで従って、御言葉にアーメンと従って、イエス様をお迎えしたのです。それがザアカイの信仰です。もう個人的関心ではありません。名前を呼ばれて返事をしたら、もはや個人的ではありません。主と結ばれてしまっているのです。ザアカイは主の名を呼んだわけではない。あの盲人のように、私を憐れんで下さいと叫び続けたわけでもない。その私の名前をキリストが、呼んで下さり、捜し求めておられるのです。神様に返事をする者を捜しておられる。見えているのに、失われた者を、そこにいるのに、主の前におらん者を、捜して永遠に救うため神様は救い主として来て下さって、今日この家に、救いが実現するように、愛がこの家に満ちるようにと求めてくださっているのです。

人は色々と言うかもしれません。私に関わってくれもせんのに無責任なことばかり言うのです。でも神様は、その私たちの罪の責任を一身に引き受けられて、十字架で責任を取ってくださいました。わたしが死ぬからあなたは生きよと、永遠の赦しと、神様の家に生きる永遠の命を、私たちの前に差し出して、この救いがあなたを訪れるように、今日、あなたの家に、わたしは宿らなければならないと言ってくださる。なら、人の言葉など、もういいのです。主が、ザアカイの人生に来られたら、人が一体何と言おうと、必ずザアカイは救われるのです。具体的な人生の変革すら起こります。罪深い人間だと言われても、あいつはダメだとさじを投げられ、人々からは失われておっても、神様が捜して下さり、神様がその腕に抱きしめてくださり、あなたはわたしの愛する子だと、神様が十字架で受け止めてくださったから、だから、ザアカイは立ち上がり、新しい人生を歩み始める。主よ、私は財産の半分を貧しい人に分け与え、不正な取立てをしておった人には四倍にして返します。前の頁のお金持ちの議員には、全財産を貧しい人にとイエス様は仰ったのに、ザアカイは半分を貧しい人々と分け合いますと言う。それでも構わないのです。全部か半分かが問題ではない。ザアカイは、イエス様を、主よと呼び、主の前に、生き直すことを決意している。キリストを、私の主よと呼んで生きるか否か。キリストを、私の主としてお迎えするとき、救いがその家に訪れます。個人的関心だけに留まらず、内面的な救いが問題ではなく、永遠に、その人生全部が救われる。キリストが人生全体の主となって、罪と裁きとから救って下さる。

そのために神様は今日も私たちの名を呼んでおられます。失われた者にならないで、わたしのもとに来なさいと、主が私たちをお呼びです。

11/6/26朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書18:35-43、エゼキエル書34章23-24節 「信じざるを得ぬ恵み」

11/6/26朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書18:35-43、エゼキエル書34章23-24節

「信じざるを得ぬ恵み」

 

群衆の中を掻き分けて連れてこられたこの人を、手引きする人の足がついに立ち止まり、目の前でキリストの声がする「わたしがあなたに何をすることをあなたは望むか。」この人はどんな思いであったでしょう。いや、イエス様こそ、この人が前に立ったとき、どんなお気持ちであられたろうかと、私は想像するのです。

私たちも、必死に捜している捜し物が見つかったとき、そりゃあもうすごく嬉しいのです。家でしょっちゅう捜すのは眼鏡と携帯電話です。眼鏡は返事をしてくれませんが、携帯は返事をしてくれます。ただし、私は常時、音のせんマナーモードにしていますので、皆、静かにして、ブルブルっていう音を捜してよと、他の電話から自分のにかけ、どこ?聞こえる?声が聞こえん?見つけて~って叫びが聞こえん?って必死で耳をそばだてて捜します。見つけたらホッとします。だって、あるはずなのにないのです。おるはずなのにおらんのです。心がざわついて不安で捜す。子供の頃、家に戻ったら飼っていた小犬がおらん。黒い小犬でブラッキーと私が名づけました。当時8歳ばあで、黒いきブラッキーと名づけるらあて、中々渋いネーミングセンスをしちゅうと自画自賛するのですけど、母が、クロ、クロと呼んでご飯をあげるので、クロになってしまった小犬がおらん。家の田んぼから畑から近所一帯、泣きもってクロークローって捜しまわりました。ひょっとそういう話をすると、昔から私を知っている人は、おお、だから野口は今になっても苦労を求めて牧師にまでなって、ご苦労なことやと、まあ思う人はおらんでしょうが、別に苦労するのを求めているわけではありません。神様が必死で捜し求めておられる人々を、私も一緒に捜しゆうのです。牧師だけが捜しゆうのでは決してないはずです。教会全体で、主が捜しておられる人々を捜さんわけにはいきません。神様の憐れみを叫び求める全ての人を、主が捜し求めておられるからです。

この捜すという主題は次のザーカイの話にもつながるのですが、この18章全体で一本に繋がっている主題です。少しお勉強のようになりますが、右頁上の真ん中8節で、キリストはご自分が再び世の終りに来られる時に、果たして地上に信仰を見出すだろうかと、信仰を求めておられます。その信仰は下の13節で、神様、罪人の私を憐れんでくださいと、主の憐れみを信じ求める信仰として描かれます。16節では、憐れみなしには生きてさえいけない乳飲み子たち、自分で自分を救えない幼子たちを腕に抱き、神の国はこのような人々のものであると主は言われます。それに反して、次に登場した金持ちの議員は、天国に行くため私は何をすれば良いかと主に尋ね、主は、憐れみ深いわたしに従いなさいと招くのですが、この人は、そればっかりは勘弁と、救い主に従おうとせん。中々見つからんのです。主の憐れみを、求め続けてやまない人が、主の憐れみを信じ続けてやまない人が、おらん。

でもその人が一人、やっとイエス様の前に見つかった。どんな立派な信仰の持ち主で、身なりも軽やか、立ち振る舞いも社会的常識をわきまえて、いかにも信仰者、っていう感じの人でしょうか。むしろ、社会の外の人です。事実、街の中でなく、街を守っている城壁の外の道端で生きざるを得なくなっている、英語で言うところのアウトサイダー。好きで外側にはみ出したわけでは決してないのに、群衆の仲間にも入りたいのに、叫んだら、黙れと叱られる外側の人。でもその人の叫び求めに、主は信仰を見られたのです。

その人が道端に座っていると、群集のざわめき、足音が迫ってくる。目は見えない。ざわめきの先頭が過ぎていく。すみません、何事ですかと何度か尋ねた後で親切な人が一人答えてくれたのか、誰も答えてくれなくて誰かの服をつかんだか。ナザレのイエス様のお通りだ。聞いたことがある。この方こそ救い主ではないかと言っていた。疑う気持ちもないわけじゃあない。けれど私が聞いたイエス様は、憐れみ深いお方であった。この方に私は見つけてもらわなければいけない。その方が、どの方向におられるのかもわからないまま、この人は急いで立ち上がって、ダビデの子、イエス様、私を憐れんでくださいと叫ぶのです。群集の先におるのか後におるのか、方向も何も全然わからん。本当にイエス様が来ゆうかどうかもわからない。けれどもし本当に救い主だったら見つけてもらえる。救い主が私を見つけてくださる。だから、うるさいと叱られようと、黙れと押さえつけられようと、ますます大声で叫ぶのです。何度も何回でも叫び続けてやまんのです。ダビデの子よ、私を憐れんでください。私の羊飼いよ、憐れんでください。どんな顔をしてこの人が叫んだか。思い描いて欲しいのです。そしてその声を聴かれたイエス様のお顔を、どうか仰ぎ見て欲しいのです。どんなお気持ちで主はこの人を群衆の外側に見つけられたか。

彼が叫んだ、ダビデの子という名称は、先に読みましたエゼキエル書に預言されているイスラエルの王、ダビデ王に類する牧者があなたがたに与えられるという預言に基づいた、救い主メシアの呼び名の一つだと言われます。改めて34章20-24節をお読みします。「…」。虐げられているご自分の羊を、主は憐れんで救い出される。その憐れみ深いあなたの羊飼いを、あなたは信じればよい、あなたの救い主を呼べばよいと、主は約束をして下さいました。そのダビデの子なる主を呼ぶのです。ところで子と呼ぶのは、人の子とか、属するという意味でしょうが、歴史的文化の産物でしょう。例えば日本で便所をトイレと呼びますが、英語でトイレは便器ですから、トイレ貸してと尋ねたら、一個しかないき必ず返してと言われます。面白い文化の違いです。神様が人となられる百年ほど前に、救い主メシアをダビデの子と呼ぶ名称が定着したようです。ただ、この名称はもう一つのイメージも持っていて、全戦全勝の猛将であったダビデのように、ダビデの子なる救い主メシアは、武力によって逆らう敵を征圧しイスラエルを神の国としたもうというイメージです。けれど、そういう神の姿を信じ描く人の立ち振る舞いは、往々にして、自分たちとは異なる人を外に出させて、叫ぶ盲人に向かって叱りつけ、力によって自分の意に反する者を黙らせようとする。そういう横暴な力で立ち振る舞ってはおらんでしょうか。その人の信じる神の力も、人を罪と死の滅びから救い出す憐れみの力となり得ているか。憐れみ深く、かつ正義を無にせず、自らを身代りに十字架につけて罪を裁かれる、聖なる憐れみの神様を、その人は果たして信じているのか。やがて人の子がくるときに、果たして地上にそのような信仰が見出されるのか。

目が見えているがばっかりに自分の力をためらわず信じ、永遠の命を受け継ぐために私は何をしたら良いかと、私のすることを問うた金持ちとは異なって、この人は、ただただイエス様に向かってこう叫びます。ダビデの子、私の羊飼いイエス様、私を憐れんでください。私を救われる主よ、私を憐れんでくださいと。この人に、イエス様こそ、こう言われます。「何をして欲しいか。」わたしがする。人にはできないことも、わたしにはできる。人よ、あなたはわたしがそのように、憐れみ深い、あなたの羊飼いだと信じるか。わたしの羊よ、あなたはわたしに、何をして欲しいか。

見えるように、と言ったこの人に、主は「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われます。どんな信仰が、でしょうか。この人は、救われるようにとは言っていません。見えるようにと願ったのです。主は、そんな肉体のことでなく、霊的なことを求めよと叱ったでしょうか。決してそうではありません。求める態度をご存知だからです。その態度が信仰だと言ってもよいのです。救い主の憐れみを信じて叫び続けるこの人の態度に、そうだ、わたしはあなたの言うとおり、わたしはあなたを憐れむ神、わたしはあなたを救い出す主だと、主はその信仰を喜んで見い出してくださいます。そのときイエス様がどんなお顔をしておられたか、改めて仰いで頂きたいと願うのです。エリコにまで続いた旅の道、そしてこれから十字架につけられるエルサレムへと続く旅の道中で、日に焼けたお顔をクシャクシャにして、わたしは地上に、この信仰をこそ見出したい、あなたたちの内に見出したいとイエス様は願っておられます。あきらめず祈れと教えられた主が、あきらめず叫び続けたこの人を見つけて、あなたを見つけて本当に嬉しい、見えるようになれ、さあ、見てご覧と、開かれた視界に、真っ先に飛び込んできたのは、きっと、イエス様の笑顔に違いないのです。

そんな救い主のお姿を仰いだ人が、どうして神様を褒め称えながら、イエス様にお従いせんということがあるでしょう。この人は賛美しながらついていきます。先立つイエス様に従って、主の憐れみの人生を行くのです。あるいはこの人も、いつかこう考えることがあったかもしれません。もしも私の目が見えておったら、もしもお金を持っておったら、私はイエス様に従ったろうかと。この人とまるっきり対照的なのが、先に登場したお金持ちの議員でしょう。目も見え、お金も、力もあった。なのにイエス様に従わんかった。なのに、でしょうか。だから、でしょうか。無論、神様はお金という障害を乗り越えることがおできになります。それが次に出てくるザーカイです。お金も力もありました。なのにキリストに従うのです。主が、この人を憐れんでくださったからです。神様に不可能なことはありません。ならば私たちに問われているのは、その神様に対する態度です。お金があるなら、そのお金をどうするか。目が見えるなら、その目で誰を求めるか。何かがあろうと無かろうと、何かを持っていようと持ってなかろうと、私たちは、どのような態度・信仰をもって、イエス・キリストをくださった、憐れみ深い神様に向きあって生きるか。神様は身を乗り出して、私たちを求めておられます。

いつの時代にもおられるこの人、道に座る以外になかったこの人は、社会的にも、肉体的にも、貧しさと悲しみにある人でした。けれど神様はこの人を、捜し求めておられます。主の憐れみを信じてあきらめず、叫び続けたこの人を、主が見出してくださるのです。そして、この人を救われる憐れみ深い主の御名を、私たちは、こぞって賛美するのです。

11/6/19朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書18:18-34、箴言8章18-21節 「赦しを持っていますか」

11/6/19朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書18:18-34、箴言8章18-21節

「赦しを持っていますか」

 

永遠の命を受け継ぐためには、私は何をしたらよいですか、と問うたこの金持ち。以前イエス様の譬えを聞いたことがあったのでしょうか。ある金持ちが、しめしめこれだけの財産があれば一生安心して暮らせると思い高ぶっているところに神様が、愚かな人よ、今夜その命を取り上げられても、その財産はあなたのものかと問われた。この譬え話を聞いたとしたら、う~ん、確かにその通りや。命ばっかりは神様のもんや。ならば死んでなお復活して生きる永遠の命を受け継ぐためには、何をしたらえいがやろうか。どんな行いを満たせば良いかと、まるでキャリアアップを目指して資格を取る人のように、英検一級とか、そういう何をすればよいかを、この人は求めた。ま、できる人だったんでしょうか。できる人の発想だと思います。自分はそれをきっとできるから、じゃあ何をすればよいかと。そのことをすれば、自分もイエス様のように善い人になって、神様から永遠の命を受けられるのじゃないか。

イエス様は、その考え方は、けんどズレちゅう、欠けがあるぜよと、神様から認められる「善い」というのは、何らかの行いによって満たし得るようなものではないと、あえて指摘をされるのです。神様の愛のご支配の内に入ってないところで、その外で、いくらこの行いは善いとか言っても、神様から離れたところで人間が言ったりやったりしている、その善いは、独善的で独り善がりにしか過ぎんでしょう。もしも、私が親に向かって、私はこんなにも善い行いを外でしてきて、牧師にまでなって、刑務所でも人々の更正のためにお話しをして、あれもして、これもして…だから、私は善い行いをしているから、善い人間だから、当然この家の土地も財産も家督をも、私は受け継げるでしょうと親に言ったら、そんなにおんしが善い人間やったら、どういて父の日に電話の一本もよこさんかと、親に泣かれはせんでしょうか。命を受け継ぐ根拠は何か。親子の関係でしょう。戸籍上のとか法律上のというのは、言い方は悪いですが、遺産相続でもめたときに弁護士が出てきて、こうなっていますからと正しい手続きで出してくるもので、その正しさは、親子の愛の関係を保障はしません。天の父なる神様が私たちに求めておられるのは、では何か。ご自身との愛の関係に入っていること、そのご支配に、神の国に今入っていること以外の一体何があるでしょうか。

だからイエス様は、十戒の中でも神様に向き合って神様のためにすることでなく、人にすること、私は姦淫もしてないし、殺しもしてないしという掟のみ抜きだして、あなたはこういう掟を知っているでしょう、ここにこだわりがあるでしょう、違いますかと問われます。問われた人からしてみたら、よくぞ聞いて下さった、その通り!私はずっとここにこだわってきました、もちろん守ってきましたと言う。なのに、不安があるのです。私は死んで後、本当に永遠の命を受け継いで、神様が完全にご支配なさる永遠の神の国に、永遠に生きていくことができるだろうかと、そこで自信がないのです。良いことです。自分の死と死後に対して自分を信じている人は、神様に、あなたはどうして自信があるのかと永遠の裁きの座で問われるからです。この金持ちが、それ故イエス様のもとに来たのは良いことです。ならばこそ、イエス様もこの人に、なお一つあなたには欠けていると言われます。でもそれは、天国に入る試験があって、あと一問だけ不正解で足らんというのではありません。前に言いましたが、天国に入試はありません。入試はイエス様が代わりに受けてくださったから、あるのは面接ただ一つだけです。天地を造られ、私たち一人一人を造られた三位一体の神様が、その面接で問われます。わたしはあなたにとって誰であったか。あなたはわたしを知っていましたか。だからあなたは、このように生きてきたのか。厳しい面接です。微笑んでいられる人など一人もいません。そこでの唯一の救いは、赦しだということが、よくおわかりになられると思うのです。

だからイエス様はこの人に言われます。あなたに欠けている行いが、一つある。わたしについて来なさい。わたしの愛の支配のもとに飛び込んできなさい。そうやって、ここに来た神の国に入ってしまいなさい。あなたにとって財産がそれを邪魔するのなら、それを捨ててしまえばよい。自分の自分のという欲は捨てて、神様の神様のという愛に変えるために、その財産を貧しい人々に分け与えたらよい。あなたの天の父であり、彼らの天の父でもある、あなたの父は、それほどに愛に満ち満ちた方であるから、自分を捨てて隣人を愛する憐れみの業を、こよなく愛し喜ばれるから、そうやって、父の子として生きればよい。自分自分はもうやめて、父よ、父よと生きればよい。そこに神の国のご支配があることを、あなたは必ず知るようになるから、わたしに従ってきなさいと、主はこの人を招かれます。救い主をくださった神様のご支配、神の国に入りなさいと招かれるのです。

こう言えばわかりよいでしょうか。金持ちに欠けていたのは、神の国に入るために何かせないかんという条件ではなくて、欠けていたのは、神の国に入ることそのもの、神様の愛の御手に身を任せて、そのご支配に飛び込んでいくことでした。神様が御子を十字架につけられたのは、そのためです。その身代りの死によって、私たちの罪を身代りに裁いて私たちの罪を赦し、キリストを復活させて私たちの主とされて、だからこの救い主に従っていく者は、誰でも救われる、人間にはできないことも、あなたのために御子を十字架につけたわたしにはできる、あなたの罪は赦された、あなたはわたしのもとに来なさいと、神様はキリストを主としてお与えくださったのです。

だから、善い先生では足らんのです。善い生き方を教えてもらって、後は自分で頑張ってでは、自分の信じる善い裁かれ方を、裁き主である神様に押し付けることになってしまいます。こんなにやってきましたからと。でも、自分の命を一晩さえも先に延ばすことのできない人間が、どうして自分の努力によって神様の裁きから自分を救うことができるでしょうか。だから、神様が救われるのです。十字架で、罪人の身代りに死ぬことさえできた神様は、人間にはできないことも、神様にはおできになるのです。一緒に考えて欲しいと願います。人となられた神様は、人畜無害の人々のために死なれはしませんでした。当たり前のことではありますけれど、神様の愛を思うとき、ただ感情的に、私たちが幸せな気分にさせられたときは神様に愛されていると思うけど、そうでないときは、神様は私を愛してないとなってしまい、次第に、神の愛が知識や言葉だけになってしまうことのないためには、イエス様がご自分に敵対する者のために死なれたということの前に、何度も立ち直さないかんと思うのです。今読んだところでイエス様が弟子たちに言われたように、イエス様が死なれた人々は、ご自分を侮辱する人々です。乱暴な仕打ちを神様にする人です。唾をかけ、鞭打って殺す人のため、神様は地上に来られました。乱暴な言い方かもしれませんが、皆さんなら、地上に行くでしょうか。私たちがあるいは一緒の空気さえ吸いたくないと思う人のところに行って、その人の罪をさえ吸い取って十字架で身に受けて、だから、この人を赦してくださいと父なる神様に祈りうるでしょうか。イエス様が死なれたのは、その人のためです。イエス様から、わたしに従って来なさいと招かれて、悲しみもしない、胸を痛ませもしない人のため、その人の罪を背負って身代りに裁かれ死ぬため、まだ一滴の愛情すら、その人々から受け取ってないそのときに、敵意と憎しみと蔑みと傲慢な嘲り笑いの只中で、キリストが、父よ、彼らを赦してください、と、私たち罪人を愛されて死んでくださった。この愛と赦しがなかったら、いったい誰が救われるのだろうか。しかし人間にはできないことも神様にはできる。神様しかできんのです。その神様が言われるのです。あなたに欠けているものが一つある。わたしに従いなさい。この愛の支配のもとに身を置きなさい。キリストによってもたらされた神の国に、あなたも入って来なさいと、神様が招いておられます。こう言い変えてもよいでしょうか。神様が私たちにこう言っておられる。わたしはあなたを愛している。あなたは、わたしを愛するか。わたしのもとに、来てくれるか。

そのような神様であればこそ、愛に報いてもくださいます。報いを求めないのが愛かと思ったら、そうではない。ま、言い様にもよると思うのですが、言わば片思い主義とでも呼びうるような、一切の報いを求めないのが愛だという高尚過ぎる考えは、やはりどこか愛する自分に捕らわれているのではないでしょうか。そりゃ、愛する相手が、もし必要ならば悔い改めて、その人も愛に生きる人になって欲しいと、私たちが、互いに愛し合うことを求めておられる神様のご期待に、そうやって共に応えていきたいと願うのが、神の国の愛のあり方でしょう。無論、報いと損得をごちゃ混ぜにしたらいけません。スーパーのポイント五倍日に買物に行くように、何?後の世で何倍にもなるやったら、ほいたら家族も捨てたが得やと、まさかそんなことを言いゆうわけではありません。あるいは損得でしか考えれん弱さを持った人間に対して、だったらほら得やろうと、何とか、この愛のもとに来て欲しい、何とか罪から救われて欲しいと、弱さを考慮されてということも、ひょっとあるかもしれません。でもやはり、神様が愛そのものであられて、私たちを愛されて、その神様のご支配、神の国が愛の国であるからこそ、報いは当然あるのです。神は愛です。だから愛は必ず報われます。道徳的な愛の法則に従ってとかではありません。宇宙の因果律に従ってなどではありません。愛する御子を、ご自分に敵対し無視する人間のため、罪の身代りに裁き死なせてしまわれるほどに、愛そのものであられる神様が、あなたは、わたしを愛するか、そうか、愛してくれるのかと、全宇宙が揺らぐほど豪快に喜んでくださるので、愛は必ず報われるのです。貧しい人に分け与えるとき、神様は、それはわたしにしたのだと喜んで下さる。逆に、分け与えることをしないとき、それはわたしにしなかったのだと怒られる。その神様が、こんなにも愛である神様が、天の富そのものとして、私たちを招いておられます。わたしに従いなさい。これが神の国です。