11/4/24朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書17:1-10、ヨブ記19章25節 「主にこれが言いたい」

11/4/24朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書17:1-10、ヨブ記19章25節

「主にこれが言いたい」

 

古来教会は、キリストの復活を祝うイースターに洗礼式を行ってきました。洗礼が約束する希望と喜びが、最も自然に心に刻まれるからではないかと思います。キリストが、私たちの罪と死を引き受けて十字架で死なれ、三日目に、私たちの裁きとしての死を終わらせてくださって、死から復活してくださった。洗礼が指し示し約束するのは、あなたも、キリストの愛と霊とに抱かれて、古い自分はキリストと共に死んで、今新しく神の子として復活の命に生まれ変わるという恵みです。母の胎から水と共に生まれ出る赤子が、まったくの受身で命を受けるのと同じように、人は洗礼の水と神様の霊によって、神の子としての命を受け取らせていただきます。全くの受身です。命ってそうでしょう。それ以外の命があるでしょうか。復活の命もそうなのです。神様から与えられる命の真実を、洗礼の水は教えます。受けるしかない。皆さん、洗礼盤に入った水を自分で蓋開けて、それって自分にかける人、想像できますか。ないですよ。ありえません。赤ちゃんで、あ、私自分で出られますってお腹から出てくる子がおらんのも同じです。命は受けるもの。復活も、そして赦しも、受けるものです。

刑務所でお話をしていて、中の皆さんが一番ピンと来られるのは、罪は赦されるしかないという真実です。自分が傷つけた被害者に向かって私はこんなに頑張っているから、赦さないのはおかしいと要求することはできないし、そんな態度が罪を犯すのでしょう。それは罪を償う者の態度ではない。けれど赦されなければ前に進めない。赦されなかったら新しく生きられない。だから神様は私たちの罪をキリストに負わせて、罪を赦して下さって、新しく生きなさいと言ってくださっているのですという福音を語ると、潤んだ眼差しが多く返って来ます。

だからイエス様も弟子たちに言われます。赦しなさい。一日7回罪を犯す人がいて、つまり2時間おきに罪を犯しては、ごめんなさい、もうしませんと言う人でも、実際はもっと短い間隔で、さっき言うたろうと頭から湯気が出るような場面も私は体験するのですけど、イエス様は、赦しちゃりなさいと仰る。けんどイエス様、反省しちゃあせんがですよと思うところで、信じちゃりやと主が言われる。だからでしょう。弟子たちの筆頭の使徒たちでさえ、よう信じちゃれません。それほどまでも赦しちゃることができるよう、信仰を増して下さい、私は力不足です、信仰不足ですと言うのですけど、信仰ってそんなもんかえと主は仰る。自分はこれっぱあ信仰を持っちゅうと思う態度があるからこそ、何で、こんな罪をすら克服できんかと人を裁いたり、何であなたは私みたいに信じられないのかと偉そうになったり、信仰も、まるでお金みたいに、多く持っちょったら力があって、人生も信仰生活も思うようにできてという態度があるから、結局、自分の力でという態度でいるから、赦しの切実さも、罪の残酷さも、他人事のようになるのではないか。人の罪には首を突っ込まない、けんど自分が被害者になったら赦さないということになるのではないか。あなたは、赦されなくて生きていけるか、そんなはずはないろう、わかるろうと主は言って下さる。

また、皆が皆、神様の愛と赦しを受け入れて、誰もつまずかないで、イエス様の救いを受け入れるというわけではないとも主は言われます。人々はイエス様をさえ十字架につけて殺すのです。恵みによる救いは嫌われる。つまずきは避けられないと主は言われます。けんど、そういう人は仕方ないとか、逆に、そんな人は救われなくて当然だという態度をもし取るならば、その態度こそ主は激しい嫌悪感を持たれるというのです。その人々の罪をも背負われて、その身代りに裁かれ死ぬため、神様は人となられて十字架にかけられ、罪を赦して下さったからです。そのキリストが言われるのです。あなたは、そのわたしの弟子になりなさいと。神の子として生まれ変わって、新しく生きて欲しいのだと招かれるのです。小さな信仰でかまわない。直径一ミリのマスタードの種ほどの信仰でかまわない。わたしの約束を信じるなら、それが信仰だ。桑の木が海に走っていくように命じることだってできる、主であるわたしを、あなたに信じて欲しい。桑の木なんかはどうだっていい。あなたの心に十字架の木を一本植えて欲しい。あの十字架の上で、あなたの罪は赦された。あなたが愛する人の罪も、愛せない人の罪も、あの十字架の上で裁かれ、背負われ、その身代りに神様が死んで、人よ、あなたは生きなさいと、死してなお生きる復活の命をただ受けて、あなたは生きよと、救い主となられた命の造り主が、私たち全員を招いておられる。

その招きに応えて、今日一人の姉妹が洗礼を受けます。また既に地上での務めを終えて神様の安息を受けている兄弟姉妹たちのことも覚えるのです。今、地上での務めと言いました。地上での1日1日が神様に、また人々に仕える1日1日であるのだと、先に召された愛する兄弟姉妹たちもどれだけ思っておられたかはわかりません。私たちのある者が、あるいは悔いるように思っていたか、あるいは私はやり遂げたと思っておられたか、それもまた私たちがあれこれ言うことではないでしょう。死者に鞭を打たないということではありません。その鞭をキリストが受けてくださったから、ただただ赦しを信頼してよいということです。その愛と復活と光の中で、説教題にもつけましたけれど、主にこれが言いたいのです。召された先輩方と一緒に、またここに集われた皆さんとも共に、皆で救い主なる主にひれ伏して、こう言いたい。わたしどもは、取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです、と。しなければならないことをすらしたろうかと、あるいは、おぼつかず、涙ぐみさえするかも知れない。その涙をぬぐってくださる主の御手に、しかし、十字架の釘の跡を見ない人はおらんのです。

この愛を信じて良いのです。ならば態度も変わるのです。自分の人生の主とならなくてよい。こんなにも素晴らしい主の前に、私をお導き下さいと、主の僕として生きもし、死ぬことも許されている。キリストの復活の光に照らされて、神の子とならせていただけるのです。