11/3/13朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書15:1-10、エゼキエル書34章11-16節 「涙こらえて必死に探す」

11/3/13朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書15:1-10、エゼキエル書34章11-16節

「涙こらえて必死に探す」

 

一昨日金曜日の午後三時前、長いサイレンが聞こえるので、火事だろうかと思っていましたら、しばらく鳴っている。あ、地震だと思って、すぐにテレビをつけました。しばらくしてだったでしょうか、文字通りすべてを飲み込んでいく津波の映像が流れました。ヘリコプターからのその映像に、次の瞬間、道路にトラックを止めて津波を眺めている運転手らしき人物が映し出されました。私は恐ろしくて、その先を見ることができませんでした。何かの理由があったのかもしれません。でも逃げて欲しかったと、映像を見た全ての人が思ったのではなかったでしょうか。子供たちにも津波の恐ろしさを理解して欲しくて一緒に見ました。怖かったようですが、だからこそ、津波が来たら絶対逃げるがでと親が真剣な思いで伝えたことは、聴いてもらえるのではないかと願っています。いつも金曜日に取り掛かっている説教の準備が手につかんほど心が動揺していましたが、このことと重ねて、神様がどんな思いで私たちに死ぬな、生きよと語りかけておられるか。罪故の滅びから、今すぐに連れ出さないといけないと必死な思いで語りかけておられるのか。今読みましたところのすぐ前で、聴く耳のある者は聴きなさいと、どんな思いでイエス様がおっしゃったのか。その痛みが伝わってくるような思いで御言葉と向き合いました。

聴く耳のある者は聴きなさい。イエス様がそう招かれ、徴税人や罪人が皆、イエス様の話を聞くために近寄ってきました。聞いても聞かんでも別によいというのではなく、聴かないかんと近寄ってきた。その一人一人に、イエス様が深い愛と共に悔い改めの福音を語られ、赦しを語られ、神様の恵みと憐れみの慰めを説かれている場面を、これも想像すると良いと思います。美しいとすら言える場面ではなかったでしょうか。人生が今まさに変わろうとしている場面でもあったでしょうか。

でもそれを見て、不機嫌になる人々もおったのです。神様の憐れみのもとに身を寄せに来た人々を、そのまま愛し受け入れるイエス様の姿が気に入らない。いや、そもそも身を寄せに来たなんて思ってなかったのかもしれません。肌の露出が多いとか、携帯電話をマナーにせえとか、当時の宗教的エリート達も、目を吊り上げて見ておって、なのにまるでそんなのは意に介せんと、よう来た、よう来たと喜んでいるイエス様が気に入らん。じゃあ、この人々の信じている神様のイメージも、やはり目を吊り上げているのでしょうか。悔い改めてから来いと。イエス様の表情や態度、語られる言葉のすべてにおいて、神様ご自身が現われていて、目を吊り上げた私に語られているなんて、いいや、そんなはずはない。だって神様は、私のように考えているはずだと。イエス様は、それに対して、違うと言われ、これが神様だという話をなさるのです。

人間は神様の顔を歪めてしまう。聖書は神様が私たち人をご自身に似せて、神様の形に造られたと告げるのに、人間はその逆をするのです。神様を思うとき、罪に歪んだ自分の形に神をイメージしてしまい、これが神だろうと自己満足する。聖書が偶像礼拝と呼ぶ罪です。罪の根源、The罪と呼んでもよいかもしれません。だから神様の言葉を聴こうとしないのは、だって、それは自分の思っている神と違うことを言っていると思ったら、耳にも入って来にくいからでしょう。自分の思う神の顔をよく見たら、きっと自分に似ているのです。だから不平も言うのでしょうか。不平の正しさを保証する、自分の顔をした神を信じて。

でもその顔が、どんなに自分自分で歪んでいても、イエス様はその顔の中に、いや、だって、そこには神様の形があるやかと、この話を聴いたらわかるろう、だって、あなたがたもきっと捜しに行くろう、わからんはずはきっとないと、主は罪ゆえに歪められた神様の、真実なお顔、憐れみ深いお顔を描かれます。そして問われる。どうして喜ぶかわかるろう。わかりとうないろうか。この喜びに生きとうはないろうか。この喜びに生きて欲しいと、罪人を神様のお顔の前に置かれるのです。

神様は、ご自分の前から失われた人を、見つけ出すまで捜されます。見つけ出すまでです。見つけ出されていますか。もしそうでないなら、いま何よりもハッキリしていることがあります。神様はあなたを捜しておられます。行方不明になっているからです。今も大勢の行方不明者がおられます。家族は必死で捜します。涙こらえて必死になって見つけ出すまで捜されます。何故でしょう。そんなのは理屈ではないでしょう。神様がどうして失われた者、聖書の他の箇所では、滅んだ者とすら訳される失われた者を、もう手遅れかも知れんのに、帰ってはこんかも知れんのに、それでも何で捜されるのか。どうして執拗に捜されるのか。

理屈は言えると思います。今までその何でかを説明する説教を何度か聴いてきたとも思います。この15章は、よく好まれる御言葉です。私の好きな御言葉でもあります。特に一人の罪人が悔い改めて帰ってきたら天には大きな喜びがある。神様の天使たちがうんと喜ぶという御言葉は20年前、恩人からいただいた御言葉です。天使たちがパーティーをして超盛り上がって喜んでいると、そのときは聞いたので、うんとイメージ豊かに覚えました。その日、私はイエス様を信じて受け入れるお祈りをちょっと前にしたと、その人に告げました。私のために祈っていたのを知っていたので、ありがとうというつもりで言ったのですが、その人は涙を流して喜んでくれました。私は正直その涙の意味がわかりませんでした。頭では理解できましたけど、涙も理屈ではないでしょう。そのときにもらった天の喜びの御言葉なのです。

理屈は言えます。価値があるからです。価値があるのに失われていて悲しくて必死で捜したのです。でも一体どんな価値でしょう。世の中には交換価値というのがあります。お金とか。これが、あるいはこの人が私に満足を与えてくれる限りは価値があるとか。例えば、下に落ちてしまった肉団子。あ、もったいないって思うでしょうか。それとも子供が拾おうとしたら、汚いき拾われん、こっちに綺麗なががまだあるきにと新しいのと交換するか。私なら洗って食べますが、でも、もったいないって思うのは、その落ちて失われてしまった、もう汚のうなって、そのままでは食べれんなった、その肉団子が惜しいと思うんでしょう。そのとき他の綺麗なのこそ、むしろどうでもよいと思うほど、心は失われたもので一杯になっていて、惜しい、口惜しいとすら思わんでしょうか。羊だったらどうでしょう。銀貨というのは、貨幣価値で言えば5,000円ほどだそうですが、これは当時の女性が結婚式に持参するために首飾りのようにつなげていたお金ではなかったかという説明もあります。思いがこもったお金なのです。愛着があるという言い方もします。お金であろうと羊であろうと、愛を上から着せちょって、あなたは私の大切な羊だという愛着があるから、失われたとき、その愛も一緒に失われるから痛みを感じる。自分が引き裂かれたような痛みがある。その羊は自分自身だという思い、感情移入とも言えるでしょうか。辛い思いをしゆうだろうと、考えるというよりも感じるのでしょう。もう理屈ではないのです。苦しくて仕方がなくなるのです。もしも失われ行方不明になったのが我が子なら、夜も寝ないで捜さんでしょうか。新しい子供と交換するとか、他にも大勢おるからなんて、そんな愛を失った屁理屈が通るでしょうか。断じて通るはずがないのです。神は愛です。失われてしまった一人一人を見つけ出すまで捜し続けられる。見つけ出されなければならないのは、名もない罪人ではありません。見つけ出されないかんのは、私であってあなたでないといかんのです。それだけ掛け替えのない人として、神様が私たち一人一人を愛されている。その私たちを滅びから救い出すために、失われておっても連れ出すために神様が用意なさったのが、十字架の上でのありえない交換です。人となられた罪なき独り子の神様、イエス・キリストが、失われた私たち全員と十字架の上で交換されて、イエス様が死んだから私たちが赦されて生きるよう、たとえ死んでも生きられるよう、神様が死んで、罪人が生きるよう、わたしが死ぬから、あなたは生きよと、罪を赦して下さった。復活の救いを下さったのです。

だから天使たちも喜ぶのです。それはこの世ですぐになくなる刹那の喜びでは決してない、永遠の大きな喜びです。罪人が復活に生きるから喜ぶのです。キリストの憐れみと恵みによって、罪赦されて永遠に生きるから、天には大きな喜びが湧き上がる。この世のあれこれから自由にされて、天の喜びに生きる自由を恵まれ、見つけられた羊として生きられるのです。今ここに生きていくのです。神様の恵みに救われた神の子として生きるのです。