11/2/27朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書14:15-24、イザヤ書55章1-7節 「神様の愛は当たり前か」

11/2/27朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書14:15-24、イザヤ書55章1-7節

「神様の愛は当たり前か」

 

イエス様と昼食を共にしていた客の一人が、さあ、どんな顔で言ったのでしょうか。こう言った。神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう。あるいは、幸いですな、ぐらいだったかもしれません。この人は、どんな神の国の食事風景を描きながら言ったのでしょうか。すぐ前でイエス様が言われたことを受けてですから、11節で言われた、謙遜な人ばっかりいる食事風景でしょうか。幸いですね。誰も長々と話をしようとしない。そこに牧師はいないんじゃないでしょうか。それよりも食事風景をイメージするときに大切なのは12節からの後半の話でしょう。普段はあまり招かれない、言わば様々な意味での貧しい人々をこそ宴会に招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたたちは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われるとイエス様が言われた。これを聞いた客の一人が、その復活後の光景に思いを馳せながら、ああ、その後に開かれる神の国の晩餐は、なんぼか素晴らしいでしょうねと言ったのでしょうけど、じゃあ、この人はそこにどういう正しい人々が一緒に食事をしていると想像したのか。そして私たちは、どんな食事風景をイメージするでしょうか。

私は最初この御言葉を読んだとき、この人がどんな食事風景を描いたかパッと安易に想像して、ああ、それでイエス様も喜んで、お、わかっちゅうやいか、そうながよ、幸いながよ、けんど、と話を続けられたのかなと思ったのです。が、原文で読むと16節「そこで、イエスは言われた」と訳された「そこで」という言葉が「しかし」という言葉なのです。となると、この人の頭の上にポワポワと浮かんだ食事風景をイエス様が下からチラっと見られて、んーっと胸を痛められ、じゃあこういう譬えをするぜよと、改めて、神様の恵みによる救いとは何か、そのポイントを今度は相当ダイレクトに話し直されたのではないか。神の国で食事をする幸いを思ったこの人も、それが、どうして幸いであるのか、神様の思われる幸いではなく、まるで神様が私たちに願われる幸いへの招きをすり抜け、よけるようにして、正しい人の集まる神の国の食卓に思いを寄せたのではなかったかと思うのです。

言い換えれば、自分の正しさを基準にし、そこに当然この私がいる、私がいて当然の正しい食事風景を描いてしまう。例えば、誰も食べ零さん、牛乳も零さん、とか言いよったら、そして、お父さんも怒らんと言い返されそうですが、そういう自分なりの正しさを基準にする食卓は、神の国の食卓ではありえないはずです。そこは仮に天国とは呼びえても神様が恵みと正義によって支配されている神様の国ではありえません。じゃあ神様の正しさが基準となった神様の国の食卓に連なれる人って、どういう正しい人々でしょう。人に自分の正しさを押し付けて自惚れるような私はそこに入れるでしょうか。では、イエス様がそこにカウントされた貧しい人々はおるでしょうか。神の国の幸いを思ったこの人は、そこに貧しい人々が無償で招かれている恵み深い神様の国に心寄せて、ああ、幸いだと思ったのか。それとも、そういう人々を招く正しい人々が連なる食卓を、正しい幸いな食卓と描いたのでしょうか。

かなり率直に問い掛けますが、皆さんの想像される神の国の食卓に、いる人は誰でしょう。そしていない人は誰でしょう。いる理由、いない理由は何でしょう。そこにイエス様がカウントされた貧しい人々はおられるでしょうか。お金持ちはどうでしょう。ポンと畑を買う人や、牛を5組ということは、それだけ耕すべき相当広い畑を持っている人です。イエス様は分かり易い対比をなさっているのですけど、じゃあ私たちはどっち側に自分を数えるでしょうか。世界水準からしたら相当お金もちであっても、いや、私はそうではないと思わないでしょうか。じゃあ、貧しい人でしょうか。日本人は、自分を普通の人として数えたいように思います。そして普通だから天国にも行けるというイメージが多いようにも思うのです。案外キリスト者であっても、私は普通の罪人で、普通の信仰で、普通の教会生活でという普通信仰が多いというのが、日本のキリスト者人口1%の壁を越えられない理由かもしれません。どうして普通がいかんのでしょうか。普通とは、人の目だからです。右を見て、左を見て、前を見て、後ろを見て、ああ、普通だと思うのが普通です。でも神の国に普通はありません。神の国には存在しない基準です。神の国では、右には右の隣人がいます。左には左の隣人がいる。そして私も私の隣人も、一人一人が、神様の前に立ち神様に対して責任を問われる人間として、一切の比べあいのないのが神の国です。神様だけが私たちを評価され、その神様の裁きだけを重んじて人の評価なぞしませんから普通というのもありません。またその逆に、自己主張する人もおらんのです。する必要がありません。誰に自分を認めさせようと言うのでしょう。それは普通も同じでしょう。結局、人からの承認を得たい。そして神様の招きを聞き逃す、いや、意図的に拒みさえしてしまうのです。

どうして神様の招きを拒んでしまうのでしょう。豊かだからでしょうか。特に必要を感じないほどの豊かさを実感しているから、別にいつ見に行ったち逃げやせん畑や牛を見に行かないかんからと、言い訳にならない理由をあげて、要するに、間に合っていますと言うのでしょうか。あるいは妻を迎えたばかりの人は、特にお金持ちだとは言われていません。むしろ普通の人を代表してイエス様も譬えに登場させたように思えます。言い訳も、だって新妻と一緒にいたいと思うのは当然でしょうと言わんばかりに、先のお金持ち二人と比べてみても失礼させてくださいと言いもせんぐらいです。ま、わからない話ではありませんので、当然といえば当然でしょうけど、そこがイエス様の譬えのポイントでもあるのです。私たちは何を自分の当然とするのか。例えば日本人であれば、まわりと比べて普通であること、普通とされていることを自分の当然とすることが当然とされ、正しいとすらされている。違うでしょうか。

でもその当然が神様にも通用すると思うのは間違いです。神様に罪人の当然は通用しません。救われて神様の食卓に連なれる人々は幸いだという話をしているのに、何故だかそこで神様の招きが消滅をして、自分の話になる人間に、主は問われます。あなたは神様の招きを自分のこととして聴いているだろうか。それとも神様の恵みの前にへりくだる救いを聴きながら、神様の招きが無償の招きであることに、ああ、そうだ、そうだと賛同さえしながら、しかしその神様の招きに、あなたが、はいと答えてないならば、これはまあ拒んだちかまんもんだろうと考えているのではないだろうか。神様の招きと、人の招きと、同じように考えてはいないかと、イエス様はポイントをハッキリさせられるのです。

説教題に、神様の愛は当たり前か、とつけました。それはもしかして神様に招かれることを当然のことだと思っているから、拒んでしまうのではないだろうかと思ったからです。既にこの招きに応えて洗礼を受けたキリスト者は別にしてということでもないでしょう。洗礼は受けたけど、畑を買ったので教会に行けないとか、妻を迎えたのでしばらく教会に行けないとか、ありえない話でしょうか。神様の招きを、神様の招きとして受け止めているのか。それともそこでも人を見て、あるいは神様を人と同様の態度で扱いうると思ってしまい、実は神様を相手にしていないから、神様を拒んでしまうのではないか。神様の愛は当たり前かという問に対して、皆さんはどう答えられるでしょう。誰に対して当たり前かということになると思うのです。神は愛ですという言葉が染み付いていたら、それはその名を愛と呼ばれる神様に対して、神様が愛であるというのは当たり前だと、そう思うかもしれません。それは正しい答えでもあるでしょう。ではその神様から私が愛されるということに対して私は、それもまた当然のことだと、平然と言えるのでしょうか。それは本当に当然でしょうか。神様の愛に従って、隣人を愛し、神様を愛して当然の私が、愛されるのは当然だと思っても、その神様に憮然と逆らい反抗して、隣人をも愛さない結果として、愛されていながらも裁きを受ける。それが当然ではないのでしょうか。その私のためにキリストが身を投げ出してくださったのは当然でしょうか。そのキリストを拒んで、私は私で自分を救うと高ぶって、それでも私の罪が赦されるのは当然でしょうか。罪が赦されるということが、一体、どのようにして当然と言い得るでしょうか。私たちがここで相手にしているのが神様であるとはどういうことか。それは、私たちが人間を相手にしているのではないということです。イエス様が言われた、誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるとは、私たちが神様を相手にしているときのことだということです。一般的処世訓ではありません。神様の前で生きることを知る人だけが、隣人と正しく生きることをも知るのです。

その生き方を、ここで最もわかりやすく表しているのが、実はここに登場する主人の僕なのです。彼は黙々と主人の願いを行います。主人の思いの内を知っていて、自分はどうでもよいのです。いや、主人の思いに心からアーメンと思い、そして従っているこの僕こそ、父の救いの御心にひたすらお従いなさって十字架に向かわれるイエス様なのです。

天の父は盛大な宴会を用意しておられます。限りなく大勢の人々のための盛大な神の国の晩餐です。ではその晩餐のまかないを誰が払うか。そんなの神様が払うのが当然だという態度があるなら、神様に低くされるでしょう。しかし、キリストはその私たちよりも低くされ、陰府にまで下られるほど低くなられて、罪の赦しという多大なる犠牲、大いなる有り余るほどの犠牲を払われたうえで、さあ、誰でもここに来なさい、無償で、何も持たずに、恵みを受けに、神様の恵みの前にへりくだり、高ぶりを捨てて悔い改めて、罪の赦しと生まれ変わりの洗礼を受けて、神の国の食卓につきなさいと、全員を招いて下さったのです。

この大いなる招きにお応えするとき、私たちも僕になるのです。普通なんてどうでもよいことです。自己主張も僕には無用です。神様を相手にして、神様の僕として生きていく。それが神様の招きを伝えて生きていく伝道という生き方です。皆ここに連れてきなさいと願われる主に、ただただアーメンとお応えし、人々を招く、神様の僕となるのです。

 

playtors.com