11/4/24朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書17:1-10、ヨブ記19章25節 「主にこれが言いたい」

11/4/24朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書17:1-10、ヨブ記19章25節

「主にこれが言いたい」

 

古来教会は、キリストの復活を祝うイースターに洗礼式を行ってきました。洗礼が約束する希望と喜びが、最も自然に心に刻まれるからではないかと思います。キリストが、私たちの罪と死を引き受けて十字架で死なれ、三日目に、私たちの裁きとしての死を終わらせてくださって、死から復活してくださった。洗礼が指し示し約束するのは、あなたも、キリストの愛と霊とに抱かれて、古い自分はキリストと共に死んで、今新しく神の子として復活の命に生まれ変わるという恵みです。母の胎から水と共に生まれ出る赤子が、まったくの受身で命を受けるのと同じように、人は洗礼の水と神様の霊によって、神の子としての命を受け取らせていただきます。全くの受身です。命ってそうでしょう。それ以外の命があるでしょうか。復活の命もそうなのです。神様から与えられる命の真実を、洗礼の水は教えます。受けるしかない。皆さん、洗礼盤に入った水を自分で蓋開けて、それって自分にかける人、想像できますか。ないですよ。ありえません。赤ちゃんで、あ、私自分で出られますってお腹から出てくる子がおらんのも同じです。命は受けるもの。復活も、そして赦しも、受けるものです。

刑務所でお話をしていて、中の皆さんが一番ピンと来られるのは、罪は赦されるしかないという真実です。自分が傷つけた被害者に向かって私はこんなに頑張っているから、赦さないのはおかしいと要求することはできないし、そんな態度が罪を犯すのでしょう。それは罪を償う者の態度ではない。けれど赦されなければ前に進めない。赦されなかったら新しく生きられない。だから神様は私たちの罪をキリストに負わせて、罪を赦して下さって、新しく生きなさいと言ってくださっているのですという福音を語ると、潤んだ眼差しが多く返って来ます。

だからイエス様も弟子たちに言われます。赦しなさい。一日7回罪を犯す人がいて、つまり2時間おきに罪を犯しては、ごめんなさい、もうしませんと言う人でも、実際はもっと短い間隔で、さっき言うたろうと頭から湯気が出るような場面も私は体験するのですけど、イエス様は、赦しちゃりなさいと仰る。けんどイエス様、反省しちゃあせんがですよと思うところで、信じちゃりやと主が言われる。だからでしょう。弟子たちの筆頭の使徒たちでさえ、よう信じちゃれません。それほどまでも赦しちゃることができるよう、信仰を増して下さい、私は力不足です、信仰不足ですと言うのですけど、信仰ってそんなもんかえと主は仰る。自分はこれっぱあ信仰を持っちゅうと思う態度があるからこそ、何で、こんな罪をすら克服できんかと人を裁いたり、何であなたは私みたいに信じられないのかと偉そうになったり、信仰も、まるでお金みたいに、多く持っちょったら力があって、人生も信仰生活も思うようにできてという態度があるから、結局、自分の力でという態度でいるから、赦しの切実さも、罪の残酷さも、他人事のようになるのではないか。人の罪には首を突っ込まない、けんど自分が被害者になったら赦さないということになるのではないか。あなたは、赦されなくて生きていけるか、そんなはずはないろう、わかるろうと主は言って下さる。

また、皆が皆、神様の愛と赦しを受け入れて、誰もつまずかないで、イエス様の救いを受け入れるというわけではないとも主は言われます。人々はイエス様をさえ十字架につけて殺すのです。恵みによる救いは嫌われる。つまずきは避けられないと主は言われます。けんど、そういう人は仕方ないとか、逆に、そんな人は救われなくて当然だという態度をもし取るならば、その態度こそ主は激しい嫌悪感を持たれるというのです。その人々の罪をも背負われて、その身代りに裁かれ死ぬため、神様は人となられて十字架にかけられ、罪を赦して下さったからです。そのキリストが言われるのです。あなたは、そのわたしの弟子になりなさいと。神の子として生まれ変わって、新しく生きて欲しいのだと招かれるのです。小さな信仰でかまわない。直径一ミリのマスタードの種ほどの信仰でかまわない。わたしの約束を信じるなら、それが信仰だ。桑の木が海に走っていくように命じることだってできる、主であるわたしを、あなたに信じて欲しい。桑の木なんかはどうだっていい。あなたの心に十字架の木を一本植えて欲しい。あの十字架の上で、あなたの罪は赦された。あなたが愛する人の罪も、愛せない人の罪も、あの十字架の上で裁かれ、背負われ、その身代りに神様が死んで、人よ、あなたは生きなさいと、死してなお生きる復活の命をただ受けて、あなたは生きよと、救い主となられた命の造り主が、私たち全員を招いておられる。

その招きに応えて、今日一人の姉妹が洗礼を受けます。また既に地上での務めを終えて神様の安息を受けている兄弟姉妹たちのことも覚えるのです。今、地上での務めと言いました。地上での1日1日が神様に、また人々に仕える1日1日であるのだと、先に召された愛する兄弟姉妹たちもどれだけ思っておられたかはわかりません。私たちのある者が、あるいは悔いるように思っていたか、あるいは私はやり遂げたと思っておられたか、それもまた私たちがあれこれ言うことではないでしょう。死者に鞭を打たないということではありません。その鞭をキリストが受けてくださったから、ただただ赦しを信頼してよいということです。その愛と復活と光の中で、説教題にもつけましたけれど、主にこれが言いたいのです。召された先輩方と一緒に、またここに集われた皆さんとも共に、皆で救い主なる主にひれ伏して、こう言いたい。わたしどもは、取るに足らない僕です。しなければならないことをしただけです、と。しなければならないことをすらしたろうかと、あるいは、おぼつかず、涙ぐみさえするかも知れない。その涙をぬぐってくださる主の御手に、しかし、十字架の釘の跡を見ない人はおらんのです。

この愛を信じて良いのです。ならば態度も変わるのです。自分の人生の主とならなくてよい。こんなにも素晴らしい主の前に、私をお導き下さいと、主の僕として生きもし、死ぬことも許されている。キリストの復活の光に照らされて、神の子とならせていただけるのです。

 

11/4/17朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書16:19-31、詩編17篇6-15節 「富の誘惑、主の慰め」

11/4/17朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書16:19-31、詩編17篇6-15節

「富の誘惑、主の慰め」

 

今週、私たちは教会の暦で、受難週と呼ばれる特別な週を歩みます。この週の木曜日に、イエス様は弟子たちの足を洗われて、最後の晩餐をなさった後、人々の手に渡され、金曜日、十字架に張り付けにされて、罪人の身代りに死なれました。そして、陰府にくだられた。

陰府という言葉は、人が死んだ後に行く場所という意味です。一般に天国と地獄という分け方で考えられることが多いように思いますけど、イエス様は陰府と言われます。むしろ陰府の中に、神様の友と呼ばれたアブラハムがいる上の方と、その間には大きな淵がある下の方があるというイメージでイエス様は陰府を語っておられます。ただこのイメージは、当時一般に流通しておったイメージで、イエス様が一般の人々にもわかりやすく、そのイメージを下地に譬えに用いられたというのが実際のようです。陰府の内部構造について教えることなど、イエス様は全く関心を持ってなかったとも言えるでしょう。それは救いの本質ではないからです。聖書によれば陰府もやがて滅びる定めにあるものです。死者は復活し、陰府はその存在意義を失います。そんなものを語っても仕方ない。問題は、神様の裁きです。生きている間にもらったものに、忠実であったか。それとも自分を押し通したか。16章全体、あるいは15章から続いている一大テーマ、私たちは神様の憐れみのもとで神様に向き合って生きているか、それとも神様から遠のいて自分勝手にしてはいないか。これはあなたの死後に関わる、あなたの永遠に関わる一大事だから、よく考え直して、悔い改めて生き直して欲しいと、主はこの譬えを通して言われます。

この金持ちは暑いパレスチナが舞台でしょうけど毎日快適に暮らしていました。柔らかい麻布は汗を吸って蒸発させ風通しのよい気持ちよい高価な下着です。高知の夏を想像したら、ああ、これは快適やろうというのがうんと現実的にわかります。最高級ドライメッシュという感じでしょうか。毎日快適に暮らす。そりゃあ誰もが望むでしょう。

けれど、すぐそこでイエス様は、見よ、ここには格差があると、もう一方の現実に目を向けさせます。汚い恰好で横たわっている人がいる。今の高知で、門前に人が横たわっているのを見ることはほとんどないかもしれません。でも眼前にはどうか。目を開けば、格差は見えてくるのです。ラザロも患っておりましたが、病も格差を生じさせます。病ゆえ仕事に就けないという悲しみもあります。そうやって更なる格差が生まれてもいって、お葬式にまで格差が生じる。金持ちはさぞかし盛大に葬られたのでしょうか。涙を流してくれる人の数にも、きっと格差が生まれるのです。

そして場面が変わります。格差も大転換するのです。死後にも格差がある。しかも生前の格差と、無関係ではないのです。主はアブラハムの口を通して、こう言われます。子よ、思い出して見なさい。あなたは生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、あなたはもだえ苦しむのだ。無論、そんなんだったら、良いものをもらわなかったらよかったというのではありません。その頂いた良いものを、あなたはどうしたかと問われるのです。神様から与えられた富の、良き管理人であったか。神様の恵みに忠実な生き方、友のため、与える生き方をしてきたか。総決算があると言われる。

金持ちは自分の快適さのために、もらった良いものを消費してきた。眼前に横たわるラザロのために、しかも、その格差を埋めるほどまでに用いるということを、神様から求められているのではないのかと、彼は少なくとも祈って神様に尋ねたことがあったでしょうか。私がもらった良いものは、何のため、もらったものかと、神様に向き合って、その舌で問うたことがあったでしょうか。それからラザロに話し掛けたことがあったでしょうか。慰めの言葉をかけたでしょうか。あるいは言葉だけでは足らんと知っていて、だから話し掛けることもせんかったでしょうか。それとも軽蔑の言葉が口から出たか。その舌を彼はどう用いたか。日本語では、口と言ったほうがわかりやすいかもしれません。口は災いの元とも言われます。ユダヤでは、舌は火だ、しかもこの小さい火が、人生を焼き尽くすと言われたりもします。金持ちが受けている火の苦しみは、所以なき一般的裁きではないでしょう。人は自分が蒔いた種を刈り取ります。神様の裁きは具体的です。罪は具体的だからです。悲惨で具体的な罪と裁きの現実をイエス様は具体的な死後の姿として描かれることで、具体的な悔い改めを求められます。金持ちはその口をラザロのために用いたでしょうか。口だけなんて意味がないからと、優しい言葉を口にさえしないで、憐れみのスタート地点にさえ立ち得なかったか。その金持ちが叫ぶのです。わたしを憐れんでください。

憐れみとは何かを、金持ちはここで初めて知ったのでしょうか。もしそうならば遅すぎるのです。憐れみとは何か。イエス様が、あなたがたの天の父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさいとおっしゃった。その憐れみとは何を言うのか。助けてほしいということでしょう。助けてあげたいということでしょう。ラザロという名前で主はこの助けを必要とする人を呼びました。ヘブル語で、神様が助けてくださる、という意味の名前です。イエス様の数ある譬え話に登場する人物で、名前がつけられているのはラザロだけです。どんな思いを込められて、イエス様がこのラザロの名前を呼ばれたかと思います。様々な登場人物を出しながら、イエス様は多くの譬え話をされました。目の前で話を聴いている人を、その登場人物に重ねながら、あなたはこの人ではないのか、そうであるなら、あなたは今何をしなくてはならないかとイエス様が、聴く耳のある者は聴きなさいと呼びかけられた。あなたに聴いてほしいのだと、そして心から変えられて欲しいのだと、私たちの物語を語ってくださった。

私たちはもしかすると、金持ちに自分を重ねて聴くかもしれません。だいぶ前ドイツの神学校に留学しておられた先生が言われるには、当時社会運動とか連帯とか盛んに言われていて、神学校でも、貧しい国々に献金をしようと呼びかけがあって、そこでこの譬え話が読まれた。でもその先生は、連帯はもちろん結構だし、献金はするべきだろう、けれどこの御言葉を聴いて、献金袋が回されてきて、財布から多少の献金をして、しかし、そういう話だろうかと皆に問いかけられた。イエス様が、ここで求めておられるのは、そういうことかと。もしかしたら、そのお金で、私たちが本当に変革しなければならないところを、何も変えないままで、済ましてしまうことになりはしないかと問いかけられた。その問いは的を射抜いていると思うのです。その先生はこう続けます。私たちは、自分がラザロであることを見ない限り、私たちは神様の憐れみに生き得ないのではないか。神様に助けて頂かなくて生きている人など、たったの一人でもいるのでしょうか。あるいは貧しさや病を負って、私は助けてもらってないと思う人ならいるかもしれません。もしかしたらラザロもそうだったかもしれません。彼の人格が温厚で優しく憐れみに富んでいたとかは言われんのです。信仰がどうであったとかも言われません。無論、なくっても一向に構わないということではないでしょう。むしろ、ここでイエス様が強調されるのは、彼が神様に助けてもらったという、その一点です。この世では散々な人生だったに違いないラザロは、神様に助けてもらった。病を負った貧しいこの人を、イエス様は、限りない憐れみを込められて、ラザロと呼ばれ、ラザロは慰められると言ってくださった。イエス様が、あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい、と呼びかけて下さったすぐ前で、こう約束して下さった言葉を思い出さずにはおれんのです。貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである。あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである。あなたがたは笑うようになる。そして、こうも言われた。しかし、富んでいるあなたがたは不幸である。あなたがたはもう慰めを受けている。今満腹している人々、あなたがたは不幸である。あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる。だからイエス様は私たちに言ってくださった。あなたも憐れみ深い者となりなさい。父の子供になりなさい。あなたの罪を、ただ憐れみによって赦してくださり、御子を十字架にお付けになられた、憐れみ深い父の子供になりなさい、もし今あなたの人生が不幸でも、貧しさと病で涙に暮れていようとも、神様はあなたを助けてくださる。あなたの永遠は神様の憐れみによって助けられる。父の憐れみのもとにいるラザロ、あなたは幸いだ、あなたはラザロではないのかと、イエス様はこのとき既に、すべてのラザロの十字架を負って、呼びかけられていたに違いないのです。だからあなたも父の憐れみに助けられ、憐れみの子として生きていけと。

キリストは私たちの全ての罪を十字架で負われて、死んで陰府にまでくだられた。死んで終りではないのです。死んだ後、陰府で苦しむか慰められるかだけでもないのです。キリストが陰府にまで降られたのは、陰府を終わらせてしまうためです。キリストがポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架に付けられ、死んで葬られ、陰府にまで降ってくださったのは、三日目に陰府の扉をこじ開けて、死人の内からよみがえり、あなたも死してなお永遠に生きる、復活の憐れみに生きなさいと私たちを招かれるためなのです。その復活の希望のもとで、この譬え話も語られた。そのイエス様ご自身、またこうも言われる。たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聴き入ればしないだろうと。ならイエス様は無駄な復活をされたのでしょうか。神様にはそうではないのです。人には閉ざされた固い心も、人間は超えていけない深い淵をも、神様なら越えていけるのです。だから、御言葉を聴くのです。御言葉で世界を造られた主の言葉を、闇に光を、死者に命を与えて下さる命の御言葉を聴くのです。人は皆、神の言葉によって生きるのです。

 

11/4/10朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書16:14-18、サムエル記上16章5b-7節 「神様は心を見られる」

11/4/10朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書16:14-18、サムエル記上16章5b-7節

「神様は心を見られる」

 

神様は私たちの心を知っておられる。こりゃ、まずいと思われるでしょうか。ああ、良かったと思われるでしょうか。それぞれかと思いますが、いずれにせよ、神様が私たちの心をご存知で、じゃあそれで終りとは、まさかならんでしょう。でなければ相変わらず神様と私たちの間の距離は遠いまま、知られていようが知られていまいが、別に何一つ変わらんということになってしまいます。そんなはずはないでしょう。神様に心を知られてまずければ、ごめんなさいと言うでしょうし、知られて安心をするのなら、その距離はグッと近くなる。ごめんなさいと言うのにも、遠いまま言うことはできんでしょう。その距離をイエス様は言うておられるのです。ほら、近うなったろう、神様はうんと近いがやき、これからは神様の目の前で、うんと新しく生きていきなさいと招いておられる。それが今朝の御言葉の本筋だと言えばわかりよいでしょうか。

古い決まりの時代は終わった。今や新しい福音の時代が来た。それがキリストの宣言です。だから、今までの生き方は、もう終りにしよう。自分とは違う考えの人を鼻で笑い、その名を愛と呼ばれる神様を軽んじるような古い生き方はもう止めて、神様のお心に寄り添って新しく生き始めよう。これが神の国への招きです。あなたも福音の自由の中に入ってごらん、しかも激しく、「力ずくで」と言うよりは、激しく入ってきてごらんと、キリストは私たちの刷新を呼びかけておられます。

先の木曜日に高知中央教会の祈祷会に向かって車を走らせておりますと、着物を着たお母さんやスーツのお父さんと手をつないで、ちょっと緊張した顔の子供たちが学校付近を歩いている。あ、入学式かと、桜のハラハラ舞い散る道路を走りながら、こっちまで少し気持ちが改まりました。新しさに緊張するのもまた良し。私はもう小学校の入学式は覚えてませんが、中学校の入学初日は覚えています。初めてのクラスルームで担任に、校長先生はどういう訓辞をされていたか、野口、といきなり質問されて、超舞い上がったのを覚えています。当時は坊主頭でした。たぶん顔中赤うなって、タコ坊主みたいだったんじゃないでしょうか。それ以来校長の話は聞くようになったように思います。ただ、テスト前の一夜漬けの悪癖だけは中々直らず、高校生になったら、大学生になったら、社会人になったら、神学生になったら、牧師になったら、え~…後は隠退教師になったら、二日前ばあに説教準備が終わるでしょうか。こんな絶望的な私をもイエス様は、大丈夫や、幸生、わたしが来たき、新しくなったき、本当に新しくなったがやき、あなたは新しく生きてえいがぜよと招いて下さる。それはまるで私が自分の古い生き方を、あたかも言い訳をしゆうように聞こえるかもしれんほどにです。でもそれほどまでにイエス様は、大丈夫、これはそれだけ決定的な新しさながやきと、激しく励まされるのです。救い主が来られたというのは、それだけ決定的な新しさに、あなたはもう生き始めて良いという福音なのです。ならばこそ、こんなだらしない私であっても、よし、イエス様に頼って自分を変えようと思えます。新しく信仰が生まれるとすら言える。別にかまんじゃかと開き直ろうとする空しさから、そうやって自分を正しいとしようとする古い生き方から、キリストによって解放されるのです。自分に固執するがんじがらめの人間の只中にキリストが来て下さって、あなたは、わたしの中で生きなさいと招いてくださる。

皆さんは、私はもうこれは、直す気もない、神様が直して下さるとも信じてない、直さないかんとももはや考えてない何かってありますか。イエス様の招きを鼻で笑ったファリサイ派の人々にとって、その一つは金に執着することでした。直訳は、金を愛しておった。イエス様が続けてお金の話をされて、それはあなたのものではないから、自分の金という執着を捨て、神様の御用のため、人々の救いのために、浪費するが如くに用いたらよいとおっしゃった。それを聞き、ハァと思ったのでしょう。神様が頑張っている私を祝福して下さった金だから、これは神様が下さった私の金だ、私の祝福の金なんだと、結局は、自分に執着する。自分の金、自分の頑張り、自分の正しさ、自分の祝福。お正月ぐらいでしたか、ハーバード大学のサンデル教授の授業風景をNHKで放映していましたのを興味深く見ました。哲学の授業です。その中で教授が、君達がこの大学を卒業し例えば弁護士になって大金を稼いで豪邸に住んで、しかし金持ちではない人々の福祉のため、稼いだほとんどのお金を税金で取られるのは、正義かと問う。すると一人の学生が、私はこの大学に入るため、多大な犠牲を払い血の滲む努力をした。でも同じような努力をしてない人の福祉、幸せのために、自分が努力して得た金を取られるのは不公平だ、正義ではないと答えた。すると教授が、では君がそうやって努力することが幸いにも許された自分に与えられた環境、また君に与えられた生まれ持った才能も、君が努力で勝ち取ったものだろうか、自分の努力主義、功績主義、自己責任主義という考え方は、自分を過大に評価して正しくないのではないかと大体そういう話をされた。私はそれを見て、もしイエス様があのクラスにおったら、あなたは神の国から遠くない、と言われるのじゃないかと、そんなことを思っていました。この教授の信仰は知りません。けれど、主が、人に尊ばれるものは神様には忌み嫌われるものだと言われたとき、イエス様がこのファリサイ派の人々にわかって欲しかったことと、教授が学生にわかって欲しかったことと、かなり近かったのではないかと思うのです。正しいとは何か。自分の正しさで終わっていて良いのか。人に尊ばれるものという言葉は人が高いとするもの、高く評価して、これが高い、これが偉い、これが正しさの基準となるほどに、自分の目に高く見える、という言葉です。自分の努力、自分の能力、自分の財力、一昔前、三高と呼ばれていた、高身長、高学歴、高収入みたいなもんでしょう。それが結婚の条件だと言われていた。神様やのうても、オエッとならんでしょうか。神様なら尚更です。忌み嫌われる。ギリシャ語の発音で、ブデルグマ。何かもう胃の中身がそのまま込み上げてきそうな音です。人が、自分が自分がと思って、これが高い、これが正しい、これがと執着しているものを神様がご覧になったら、ブデルグマっと神様は胃がむかついて顔を背けたくなられると、イエス様は言われるのです。

無論、努力は素晴らしいし、高収入がいかんというわけではありません。むしろ努力も含め、主が与えて下さる恵み、良いものです。祝福のために与えられた恵みで間違いはない。恵みには祝福するという目的があります。それは神の国の祝福を皆に分け与えるためという祝福です。世界が始まったときからそうなのです。産めよ、増えよ、地を満たせ、地を支配せよと神様が人間に最初にお命じになられたときから、世界は神の国、神様の愛のご支配によって満ちるべき世界として創られたはずです。一人一人に主から与えられる恵みの配分は違っても、その目的は私たちが皆、神様の一つの家族として共なる祝福を喜ぶこと。違うでしょうか。なのに自分自分という罪が入り込み、神様の恵みを横取りし、自分の祝福、自分の正しさで満足し、神様が与えて下さった恵みすら、吐き気がするものに変えてしまう。その罪とは単に、この行為は罪で、この行為は罪ではないと、罪のリストやカタログを作って片付けられるものではないと、例えば当時ファリサイ派の人々が、これは罪ではないと自分の都合で左右していた結婚と姦淫の問題をイエス様は例にあげられます。律法はこれを単に行為の問題として、何が姦淫で姦淫でないか分別したのか。違うだろう。神様の祝福の目的を、そんな風に分別し、だから私は罪は犯してないと言えるのか。なら殺人とは何か。心に憎しみを抱いたら、あなたは殺人者だ、違うかと主は問われるのです。心を自分自分で満たしたらそうなる。神様はその心から顔を背けられる。だって神様はあなたを愛しておられる、あなたの天の父だから。あなたの父は、いつもあなたの心を見ておいでだと主は言われるのです。

そしてならばこそ、父はキリストを世にお与えになられて、十字架にかけられ、私たちの身代りに裁き死なせ、自分自分で心を満たさずにおれないどうしようもない私たちを、御子の死によって赦すと、父は決定されたのです。それが決定的なのです。イエス・キリストが来られたことが、どうしてそこまで決定的か。どうして私たちは決定的な新しさに生きて良いのか。キリストが私たちのところに来て下さって以来、誰でも神様のご支配の只中に、ただキリストの故に入れるからです。あなたを赦すと御子をくださった父なる神様が、あなたは御子によって新しく生まれ変わる、自分を正しいとする古い自分を脱ぎ捨てて、既に与えられているキリストの恵みに、神の子とされて生きて良いと、キリストの救いをくださったからです。

これが激しい福音です。十字架のキリストの恵みを受けて、赦されて人は救われるのです。無論、赦されているから自分の好きなことをではありません。律法が廃棄されたわけではありません。むしろ律法がわかるのです。神様の恵みの本当の意味を心に受けたら、律法にアーメンと言えるようになる。こんなにも自分から自由な生き方があったかと心が楽になるのです。それが言うなれば、キリスト持ちの生き方です。お金持ちでなくてもよいのです。キリスト持ちであることが嬉しくなる。自分の正しさはどうでもよくて、こんな私をも愛して下さるキリストの救いの正しさを、人々に見てもらいたくなるのです。キリストから受ける恵みによって、人に仕える生活に新しくされます。その生き方も心も、人には、わかってもらえんかもしれません。でも、天の父は知っていて下さいます。それだけで安心できるのです。キリストを与えて下さった父の憐れみに身を置いて、キリスト持ちとして安心して、御心に生きれば良いのです。

 

11/4/3朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書16:1-13、ゼファニヤ書2章1-3節 「小事に忠実なれ」

11/4/3朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書16:1-13、ゼファニヤ書2章1-3節

「小事に忠実なれ」

 

この御言葉を読んで思い巡らしているうちに、ふと思い出したのは、昨年6月に召された金田姉妹の笑顔でした。月定献金を捧げられた後、まるでこれで思い残すことはない、やるべきことは全部やったというような満面の笑顔で、ひゃあ、これから一月どうやって暮らしていこうかと、つぶらな瞳を更に細うされ、満足そうに笑っておられた、その姉妹の笑顔を思い出していました。姉妹が不正な管理人だったというのではなく、その逆ですので、え、と思われた方はご安心ください。牧師しか知らん姉妹の秘密があったというのでは決してありません。

けれど、この御言葉が、私たち聴く者の、しかも、人には知られにくい個人の生活の秘密に触れるというのは、確かではないかと思います。皆が神様から問われるのです。あなたに管理させているわたしの富を、あなたは賢く用いているか。それとも無駄遣いしてはないかと、富の主である神様が問うておられる。私たちは皆、私たちの主である神様から託された富の管理人だと言うのです。私は皆さんにお金の使い方の明細を出しなさいと言うつもりも、口座に幾らあるか尋ねるつもりもありません。断じて、皆さんの透明性を求める神様のオンブズマンになるつもりはありませんので、その点は信頼して頂ければと思います。ならば私は、イエス様の言い方で言えば、不正にまみれたこの口で何を語ろうとしているのか。友を作ろうということです。信仰告白の言葉で言えば、愛の業に励もうということです。人々に主のご奉仕をすることで、私たちの友となられた主の弟子として、友として仕えたいのです。

「不正にまみれた富」と聴いたら、まるで泥棒でもして稼いだお金のように思われるかもしれません。私はそんなやましいお金は持っていない。だから、私のお金を用いるときも、やましい気持ちはないと思う。でもこの一月、そのやましくないお金で何か買おうとするとき、例えばコーヒー一杯買うとき、そのコーヒーを今飲むことができん人々のことが心に浮かび、一月前にはなかったような、ためらう気持ちがなかったでしょうか。それが正直な気持ちではないかと思うのです。私のお金はやましいお金ではないはずなのに、やましい気持ちになってしまうとしたら、やはり、わかっているのだと思うのです。これは私のお金ではないのだと。不正にまみれた富というのは、不正をして稼いだお金ではなく、お金そのものが不正にまみれている、あるいは不義である。正義ではないという意味で、イエス様は、不義な富、不正な富と言うておられます。何故か。あなたがたは、神と富とに仕えることはできないからだと主は言われます。神様の御心に従う管理人として、賢く富を用いなければ、富に、仕えるようになってしまう。だから、お金は正しくない。買い物に行くとわかります。俺を買え~、私を買って~、買うと幸せになるよ~と誘ってきます。無論、自分の欲望が誘うのですが、お金を巡るシステムそのものが、私たちを神様に仕えて生きることから、あたかも引き離そうとする空間、世界を造っているとさえ言えんでしょうか。だから富は不正だ、正しくない。神様からあなたを引き離して、いや~神様に忠実に生きるなんて、だって、別に忠実でなくても良いだろうと思わせる。そうさせるものは何であれ、それは正しくないだろうと主は言われます。「どんな召使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」と。お金の問題は、神様への忠実さの問題、愛の問題であるのだとイエス様はキッパリ断言なさるのです。

このお話をイエス様がなさったのは、弟子たちに対してです。すぐ前の放蕩息子の譬えで、父の財産を無駄遣いしたという弟の話があり、兄は無駄遣いはしなかった、ように思えるかもしれませんが、さて、どうでしょう。放蕩はせんかったかもしれません。ならば、賢く用いたか。確かに富は私たちと神様との関係を壊しやすく、神様に忠実に生きんでもかまんとうそぶきます。そういう不正な富であっても、それでもその富を忠実に、賢く用いて、友を作るなら、無駄遣いにはならんのです。その最も際立った例を、イエス様は19節から続く金持ちとラザロの譬えで、反面教師的に語られます。後で読んで頂ければと思いますが、この金持ちは、貧しいラザロの友となることをせんのです。挨拶さえしたでしょうか。ラザロのために金を使うなど考えもせんかったろうと思います。自分とは関係のない人だと思っておったのか。善きサマリア人の譬えで言えば、関わらんほうが賢いと、隣人になろうとせんかった。他人の距離をとった。自分の良い生活のために、愚かな金の用い方をした。そしてイエス様の譬えでこの人は、永遠の住まいに迎え入れてもらえませんでした。極端な例かもしれません。あたかも信仰は一切問われず、天国に行くにはやはり善行が必要だと教えられているようにすら思われるかもしれません。けれど、どうしてイエス様がこの話をなさったか、そのお気持ちは考えなければなりません。お金を無駄遣いすることは、永遠の住まいに関わってくるほど、危険であると言われるのです。弟子たちに対しても言われるのです。たかが金だと、いい加減にせず、不正な富でも、賢く用いよと言われます。

それは神様から託されたお金の管理人として、この富を忠実に用いるということです。神様の御心を知って、しかもよく知って、神様が誰のために、またどのようなことのためにこれを用いなさいと管理を任して下さっているのか、そのご計画に忠実たることが求められます。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。逆に、ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。ここで、不忠実と訳された言葉は、不正という言葉です。正しくないの反対は正しいかと思ったら違うのです。不正の反対は忠実だ。忠実でなければ不正を働いている。またそれが永遠の住まいに迎え入れてもらえる正しさでもある。無論、不正な富で作った友達が、ねえ、神様、可哀相やき入れちゃってもえいろうと門を開けれるわけではありません。さっき言いましたラザロの話で「わたしたちとお前たちとの間には大きな淵があって、ここからお前達の方へ渡ろうとしてもできないし、そこから私たちの方に超えて来ることもできない」と、イエス様がアブラハムに語らせる通りです。永遠の住まいに迎え入れる正しさを持っているかどうかを決められるのは、神様です。だから私たちが忠実であること、信頼たる者であることを、主は求められます。信頼によって結ばれた関係、それが正しさではないか、それが信仰ではないかと言うておられるとも言えるのです。

ならばその信頼の正しさ、神様を信頼し、神様からも信頼される主の弟子として歩んでいくとき、そこで神様が求められる正しさは、じゃあどこに向かうか。内向きに自分の良い生活に向かうでしょうか。いや、そもそも私たちは、自分は忠実な管理人だ、神様の信頼に足る者だと言い得るでしょうか。あるいは自らを省みるとき、不正な管理人であるにもかかわらず、その私の友となるために神様が来て下さった。十字架の苦難をも省みず、神様が人となって死ぬために来て下さった、キリストが来て下さった恵みを知るのです。私のために、そして、私と同じように神様に対して負債のある多くの友のために、キリストはごく小さな事に過ぎない富などでなく、命を使い切って下さいました。まるで浪費するが如くに使い切り、放蕩するが如くに使い果たされて、それでいて、これは断じて無駄遣いではない、そうだろう、違うか、わたしはあなたを友として得ないかと、命の大事を使い果たしてしまわれた。

そして私たちに向かって言われるのです。あなたも友を得なさいと。イエス様のなさった譬えの中で、不正な管理人が唯一行った正しい事、それは友のためお金を使い、あたかも浪費するが如くにお金を使って、友を作ったことなのです。同じことを、あなたもしなさいと言われるのです。不正な富を用いて友を作りなさい。愛しなさい。伝道しなさい。彼らの隣人となりなさい。善きサマリア人が散財したように、神様の愛のためにこそ富を用いて、主の憐れみの内に人々を置きなさい。そのとき富は不正ではなくなる。何故なら忠実に用いるからです。そもそもそのための富である。これこそ神様の御心に忠実な、正しい富の管理だと言われます。命に比べたらごくごく小さな、小さな事であるこの富を、あなたは友を得るために、どんどん使ったらよいと言われるのです。そうしておけば、金がなくなったとき、いよいよ主の弟子として託されていた、すべてのものを使い切ったとき、友なるイエス様が永遠の住まいに迎え入れて下さいます。良くやった。良い忠実な僕だと言って、永遠に大きな喜びの富に、私たちを迎え入れてくださるのです。

だから私たちは待ち望みます。どんなに小さな愛の業でも、精一杯、その小さな愛の業に励みつつ、主が再び来られるのを待ち望むのです。

 

11/3/27朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書15:25-32、ホセア書11章8-9節 「憐れんで当たり前やか」

11/3/27朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書15:25-32、ホセア書11章8-9節

「憐れんで当たり前やか」

 

好きな人の言うことを聞くのは苦ではないのに、好きでない人の言うことを、なのに聞いて従わないかんとき、これを人は、義務と呼ぶのでしょう。天の父の愛は決して義務ではないのにです。これは神様と私たちの譬えであり、兄の考え方はこうなのです。私は義務を果たしてきたのに、弟は義務を果たしてこんかった。その弟が、間違っている弟が、喜んで受け入れられるのは間違っている。怒りは正義の表れとして噴き出します。自分の正義が否定されると、人は顔つきが怖くなります。

不公平だと思ったのでしょうか。損をしたと感じて、頭に来たのか。自分の自由にしたいという気持ちを我慢して、義務を果たしてきたのにと。兄が「わたしは何年もお父さんに仕えています」と言った言葉は、直訳すると「奴隷奉公しています」です。自分は奴隷として我慢して仕えてきたのに。なのに義務とか奉仕とかちっとも考えてない、自分のことしか考えてない、あの脳天気な裸の王様である、あなたの息子が、弟とは呼びません。呼びたくもないほど怒っているのです。あなたのあの息子が、好きなことをやって当然の報いで苦しんで、裸になって帰ってきたら、何と家にある一番上等な服を着せられて、皆喜んでお祝いをしてご馳走を食べて、なのに私は野良作業の服を着て、疲れて奴隷奉公をして帰ってきて、どうして一緒に喜んで食事につけるかと、ちゃぶ台が空を飛ぶ。ま、気持ちはわかります。言いつけに一度も背いたことがないほど頑張って奴隷奉公してきた私に、なのに子山羊一匹さえ友だちと喜びやって恵んでくれたことなど一度もなかった。ズルイ、不公平や。そんながやったら、私も好き勝手やったらよかったと、弟の帰りを喜べない。でもそれは、兄も父の家に帰ってないから、彼もまた父から遠くにいるからだとイエス様は言われるのです。

父の言いつけと訳された言葉は、掟という言葉です。教会学校の礼拝で十戒を唱和するとき、私はいつもこう言います。神様が下さった神の家族の掟、十戒を一緒に唱和しますと。十戒の冒頭、前文と呼ばれるところで主はこう言われます。わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。その神様の掟を守るとき、奴隷奉公すると感じるのなら、まだ奴隷の家にいるのです。いや、神様の家にいるにもかかわらず、私がいるのは奴隷の家だ。果たさないかん義務に縛られ、あれをせないかん、これもせないかん、それでも義務は義務やき、やらないかんがやと、そうやって父との関係を感じておればこそ、あるいは父の心を感じることもなく、せないかん義務にだけ心がいって、義務だから頑張ってやっているなら、喜びは失われてしまいます。その名を愛と呼ばれる神様の、家族の掟を義務と感じたら、家族愛が失われ、奴隷になって、父から遠のいてしまいます。

兄は、突飛な想像かとも思うのですが、本当は甘えたかったのだろうかと、ふと思いました。私が兄だからでしょうか、弟ばっかりズルイ!という気持ちを、つい考えてしまうのかもしれません。掟を破ってきた弟が受け入れられるのはズルイと思う。それこそ掟破りだ。しかもそのルール違反を、父がしているのが頭にくる。真面目にやってきた私が、どうしてここで腹を立てなければいけないのかという気持ちは、けれどまるで小学生ぐらいの時に、何か味わってきたような気もするのです。

甘えって何でしょう。甘えの研究で有名な土井健郎さんの著作など、読まれた方もおられるかもしれませんが、端的に言えば、甘えは二つに分けられるかと思います。一つは自分を受け入れて欲しいという甘え。もう一つは、自分の好きにさせて欲しいという、言わば甘ったれです。あまり図式的過ぎるのも良くないと思いますが、この二つは重なるところもあるでしょう。本来の甘えである、自分を受け入れて欲しいという思いは、受容欲とも言えるでしょうか。お腹の中の胎児のように、そのまま受け入れられたいという思い。それは神様が三位一体の神様の形に人を造られた、互いが互いに受け入れあっている、愛の本性とも言えるような、人間に与えられている本来の甘え、あるいは本来の自己愛とも言えるでしょうか。それとある程度重なるようにしてあるのが、言わば甘ったれでありまして、自分の好きにさせて欲しいという自己欲。我欲とも呼ばれますが、受け入れられたいというよりも、まるでブラックホールのように全部自分のモノにしたいという飽くなき吸収欲、支配欲。自分が自分が、自分で自分で、自分の好きにさせて欲しいという欲望は悪い自己愛、罪の根源です。

現代はこの二つをごちゃ混ぜ、ない交ぜにしてしまい、愛することを自己愛の追求に置き換えました。そして愛の現場を、人への愛も、神様への愛も、ぐちゃぐちゃに破壊してきたように思います。違うでしょうか。だからこそ、繰り返し語る必要があるのです。神様は人を愛し受け入れてくださいますが、罪は甘やかされません。主の愛は、自分の好きなことをして良いという甘ったれの許可ではありません。その名を愛と呼ばれる聖なる神様は、罪をまるで無害なものと受け入れ許可をすることは決してありません。罪は人を傷つけ殺します。だから罪は罪として断罪されて、罪を犯したら処罰され、必ず裁きを神様から受けます。

ならば甘ったれて自分の好きなことをして苦しんだ弟を、蔑んだ兄が正しくて、受け入れた父が甘ったれているのだと、兄が勝ち誇ることができるのか。決してそうではないと主は言われます。イエス様は決して甘やかすことのない父と完全な合意をされた上で来られた救い主です。聖なる三位一体の神様の御子である方が、罪人の身代りとなれるよう、人として生まれて、その救い主として言われるのです。わたしが父の掟を一身に受けて、罪の裁きを全部身に負って、十字架であなたのために裁かれ死ぬから、あなたは赦されて父のもとに帰りなさいと。あなたの父の御心は、あなたが帰ってくることなのだと、イエス様はこの兄の話をされるのです。あなたも父に、受け入れられているではないかと、父の憐れみを語られます。あなたも、あなたの弟も、まったくの恵みによって赦され、受け入れられているのなら、そこに不公平などないではないかと、自分を信じる甘ったれから兄を解放されているとも言えます。この父の恵みと憐れみのもとでなら、自分では受け入れがたいと思う人をも、きっと受け入れられるだろうと。

怒り、あるいは受け入れたくないという感情は、相当に御し難い感情であると思わされます。イエス様の譬えはここで終わって、後は聴く人に委ねられます。ここでも聴く耳のある者は聴きなさいということになるのです。兄は弟を受け入れたでしょうか。いや、私こそ恵みによって父から受け入れられているということを、兄は受け入れたでしょうか。そこに罪の本拠地があるのです。この譬えを聞いていたファイサイ派の人々は、悔い改めて、今まで蔑んでいた罪人を、受け入れ喜んだでしょうか。かえって怒りを深くしたのではなかったでしょうか。その怒りがイエス様を殺すのです。私は間違ってないという自分の正しさ、傷ついたプライドが、神様の憐れみに牙をむき、キリストを殺し、父から自分を遠く引き離し、自分を失わせてしまうのです。それ故、この譬えは、二人の放蕩息子の譬え、あるいは二人の失われた息子たちの譬えとよく呼ばれます。兄もまた父から遠くにいます。一つ屋根の下におったとしても、兄の心は父から遠く離れた荒れ野で、自分の正しさが支配する、私の王国で暮らしています。表面上は父に従っているように見えても、人には見えない心の中で、自分が正しいとしているのなら、それ故に、父の言いつけの本意が見えんのです。掟の優しさを閉め出して、神様と表面上の関係に留まって、そうなると掟が義務になってしまい、表面上は従っているようでも、心では、こんな厳しい掟を頑張って守っている自分を褒めてあげたいということにならんでしょうか。よくぞ、こんな言いつけに頑張って自分は耐えていると。だから、頑張ってない弟が頭にくるし、頑張ってない弟を受け入れる父にも腹が立つ。甘い。何でこんな甘い受け入れをして、しかも喜んで受け入れるのか。義務を頑張って果たしている私こそ、私こそ受け入れられるのが当然じゃないか。

けれどこの兄を受け入れようと家から飛び出してくる父の憐れみこそ甘い!と思われんでしょうか。甘いでしょう。弟は少なくとも、自分が間違っていましたと、自分自分ではダメでしたと我に帰って悔い改めて父の家に帰ってきたのです。ごめんなさいと言って帰って来たのです。この兄はまだ自分の正しさに固執しています。まだ自分が間違っているとは思えない。認めたくない。その正しさでキリストを殺すのです。人をも自分をも殺してしまう、誰をも活かしえない自分の正しさという罪を抱えて、兄は怒り続けているのです。だからこそキリストはこの罪と怒りを受け止められて、あなたを殺すこの罪は死なないかんと、両手を広げられて十字架に上げられて、打たれたご自分の命の中に、この罪を受け止められるのです。受け入れたらいかん罪だからこそ、この罪を父はキリストに負わせて、御子との完全な合意のもとで、兄をも神の家族として受け入れるために、救い主を断罪なさるのです。十字架の御子の執り成しは、兄への執り成しです。未だ目を吊り上げた兄に囲まれて、キリストは、兄の赦しを乞われるのです。父よ、彼らを赦して下さい、自分が何をしているか、わからんのですと、ご自分は、父から罪そのものとして処断され捨てられ死んでしまわれる。これが甘くなくって何なのでしょうか。弟が受け入れられるのは甘いでしょうか。聖なる三位一体の神様は、兄をさえ受け入れられるため、御子を見殺しにされるのです。これが甘くなくって何なのでしょうか。でもだからこそ、人は神様の憐れみによって生きられるのです。何をしているかわからない、自分の正しさを抱えて死のうとしている兄もまた、自分を知って我に帰って悔い改めることができるのです。私たちの罪を赦すのは、御子をくださった父なる神様の驚くべき憐れみの甘さ以外の何物でもない。この甘い憐れみと恵みによってのみ、頑なな心も変えられます。いくら頑張っても変わらなかった心が、父よ、とすがるとき変えられていきます。下手な祈りでも、下手な甘えでも、父よ、とすがりついていく私たちの心を父は必ず喜ばれるからです。この喜びが、神の家族の当然なのです。

 

11/3/20朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書15:11-24、ゼカリヤ書3章1-5節 「うちの子が帰宅した!」

11/3/20朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書15:11-24、ゼカリヤ書3章1-5節

「うちの子が帰宅した!」

 

自由になりたい、自分の自由に生きていきたいと、おそらく皆どこかで思っているのでしょう。けれど、実際は中々そうはいかなくて、外食をしたり、買い物をしたりして、プチ自由を少し味わっては、またもとの生活に戻っていく。それが大方の自由の選び方なのかもしれません。それなのに、私の分になる遺産を分けて欲しいと、親がまだ生きちゅううちから尋ねるらあて、どんな神経の持ち主かと、聴いていてお思いにならなかったでしょうか。もし私が息子から同じことを言われたら、俺の子やきねゃと、諦めるかもしれません。が、もしも娘に言われたら、妻の、いやいや、お父さん何を間違うたろうと涙ぐむかもしれません。

イエス様が語られたこの譬えは、聴いて難しいところはあまりないと思います。当時のユダヤの習慣では長男が他の兄弟よりも二倍の遺産を受け継ぎますから、弟が、それなら自分の力でそれを倍にしてやろうとあるいは考えたかもしれない。また、ユダヤでは豚を汚れた動物と見なしましたから、豚の世話をして生きるというのは、自分を汚す生き方をすることである。それはイエス様に近寄ってきた罪人と呼ばれた人々の生き方が暗に言われているのだろうという説明を他にすると、後は難しい話ではないと思います。例えば上手い噺家が落語でやったら、涙して聴く人もいるかもしれない、言わば、良い人情話の趣もあります。ただ明らかにここで語られている父親は、あなたの天の父なる神様のことだという譬えを主は語っておられる。昔からこの譬えが福音の中の福音と呼ばれてきた所以でしょう。失われた我が子の帰りを見つけた神様が、どんなに心つき動かされ揺さぶられて、走り寄って来て抱きしめてさえくださるか。何故イエス様が私たちに、あなたは祈るとき、天の父よと呼びかけるよう教えられたか。ここに美しく描かれるのです。

ただ、この父が私たち一人一人を造られた父なる神様であればこそ、よく読むと、わかりにくい話でもあるのです。何で父は遺産を分けてしまうのか。分けますか?借金の返済で困っちゅうと泣きつかれてというのであれば、わかりますが、要するに、あなたから自由になりたいきと言われて分けるというのは、人間の親子の常識ではありえんでしょう。教会で言うなら、教会生活が窮屈になってきたき、教会を抜けさせてください、それで私が神様に捧げてきた献金を返して下さいと。長老会で承認されるでしょうか。むしろ説得されんはずがありません。もし何も言われんかったとしたら、そんなあなたとは、こっちから縁を切りたいということでしょうか。であれば手切れ金です。私たちの父はそんなにも怒りっぽくて無口な父だと主は言われるのか。断じてそうではない。むしろ息子。息子は父の語る言葉を聴いておったのでしょうか。聴く耳を持ってなかったら、どんなに熱心に語られていても、素通りで自分のことだけで終始してしまう。だから聴く耳のある者は聴きなさい、神の言葉を、聴いて欲しいと、イエス様も言われたのだと思うのです。

遠い国に旅立つずっと前から、息子の心は父から遠ざかっていたのかもしれません。聴く耳持たず、心ここにあらず。ならどこにあるのか。父から遠く離れたところで、自分の力、自分の人生、自分の幸せを夢見ておった。その息子に、父は財産、ビオスを分けたと主は言われます。直訳は、生命の分け前を与えたです。同じ言葉が例えば長く出血を患っていた女性が医者に全財産、生命を使い果たしたと言われます。また、エルサレム神殿で献金を捧げた貧しいやもめ、未亡人を見てイエス様が彼女は生活費、生命の全てを捧げたと言われた。生命を支えている財産という言葉です。父は、俺に人生をくれという息子、あるいは人生を私の人生にしたいという娘に、それならと生命を分け与えられます。神様はそのように、私はこれをしたいという人間の自由を、尊重される神様であるというのは、確かに聖書全体の語る真実です。神様は、罪を抑制されますし、やめなさい、死ぬな、生きよと言われますけど、聴く耳を持たないで、私はこれがしたいと執拗に自分の人生に固執する者をも、人としてその自由を尊重されます。そして人間は命をいただいた神様に背いて、罪を犯すことを選ぶのです。そして何をするかの自由を確かに与えられてはいますけど、その行った行動の結果を選ぶ自由はありません。人は自分の蒔いた種を刈り取ります。本当は誰もが知っていることではないでしょうか。そして息子は、父から遠のいて生きることを選んだ結果、いただいた人生を、無駄にします。

無駄って何でしょう。礼拝も無駄な時間と思うから行こうと思わんのかもしれません。それって有益ではないということでしょうか。無益。言っても無駄。馬の耳に念仏。無駄。そう言います。役に立たん、思ったような効果をあげんから、お金の無駄、時間の無駄とよく言います。でもそれって、利益主義という考えが基本にあると思うのです。生き方の基本、人生の座標軸にしているとも言えるでしょうか。中学の数学で学んだのだったか、X軸とY軸のグラフで、人生の利益、損得を測る。例えば横軸の下は損。上は得。縦軸の右はお金を儲けるとか、実際上の損得。縦軸の左を精神的な損得とするとして、私が7,000円の神学の本を買うとする。内容が良ければ、私は得と思いますが、本に7,000円!内容は?宗教改革と聖餐式について?さあ、この7,000円の買い物を座標のどこに置きますか。無駄って、こういうグラフの上で計算されるのではないでしょうか。聖書でも、豚に真珠とか言いますから、グラフで考えることが全くないとは思いません。急所は、そのグラフの中心に、誰がおるかです。中心におるのが自分なら、無駄は、私にとっての無駄ですし、損か得か、有益か無益かも、ぜんぶ私にとってです。自己中心とはそういうことです。例えば、少し贅沢をして、170円の甘いものを買っても、いやけんどこれはほら、ストレスを和らげるため、精神的には有益やき、これは無駄な買い物じゃないがやきと自分に言い聞かせることが多いのは私だけでしょうか。1,700円はどうでしょう。17,000円ならどうでしょう。放蕩息子は、一体幾らを自分に使って、これも役に立つ、損失も勉強のうちと言い聞かせて、幾ら勉強をしたのでしょう。彼は誰のために役に立つと思ったのでしょう。彼は命を無駄遣いしたとイエス様は言われるのです。この人生の座標軸の中心に、神様におっていただかんかったら、人生は破綻すると主は言われます。

いや、めった。こんな話を聴いたら、これからお菓子も食べれんなると心配されている方はおられるでしょうか。大丈夫です。そういう話になってしまうと、今度は来週話をする兄の間違いに陥りますので、自分の自由が何もない、自分のためには何ちゃあできんという話ではありません。安心してスイーツを買って欲しいと思います。イエス様もきっと甘いものを食べては大喜びで、こりゃうまいとか言って楽しまれて、けれどファリサイ派の人々からしたら、それが気に食わないのです。

急所は、神様を私の主よとお呼びして、人生の中心を明け渡しているかです。そして、その主のお顔を仰いでも、この甘党の罪人めと、そんなことで怒ってない、むしろ、私のことを私以上にご存知で、弱さをも憐れんでくださる父のお顔を感謝して仰いでいるかどうかです。神様との関係を神様中心に楽しんでいるかどうか、そう言っても良いのです。放蕩息子が、どうして人生を無駄に使ったか。父との関係を無視したからです。父との関係をさえ自分の座標軸のどこかに位置付け、だから、私はこの父から離れて暮らしたい、父と一緒だと自由になれないと、こんなにも憐れみ深い父を捨て、父が自分を思ってくれている深い憐れみがわからんなるほどに、自分を父から遠く離したからです。

だから、父なる神様の憐れみから遠く離れた放蕩息子は、それがすべての間違いだったと、悔い改め、父のもとに帰ろうと向き直った。人はそのとき、本当の我に帰るのです。自分を天の父の前に置いて初めて、人は自分の本当の座標を知るのです。我に帰るってそうでしょう。父なる神様を知らずして、どうして自分がわかるでしょう。そして、そこでまず知る私たちの姿こそ、放蕩息子がまず知った、父にとっては無益に生きた貧しい自分の姿です。甘いスイーツを食べることさえ、父に感謝し、こんなことさえ喜んで下さる父の喜びのためにと、一度でも食べたことがあったろうか。父のため、すなわち父の御心を求めて、私が何をしてきたろうか。私は父に罪を犯した。その人格を無視し続けた。もしも父の座標軸に私を置いたら、どんなに無益な人生を無駄に過ごしてきたことか。まず、その本当の我に帰るのです。

でもそれで終りではないのです。その無益な放蕩息子に向かって父が走り寄ってきて抱きつくのです。おんしは俺の子供やと言うて下さる。まだ遠く離れていてもです。その距離を埋めるのは、熱心な悔い改めではありません。ご自分から遠く離れていた無益な息子が、ごめんなさいと我に帰るとき、その距離を、それがどんなに遠くても、遠すぎて帰ることができんということが決してないよう、父のもとに帰るその距離を父の憐れみが埋めるのです。こんなに悔い改めましたからという態度の中心に、誰がいるかを考えたら、きっと素直にわかるのです。こんなに頑張って生きてきましたからという態度の真ん中に、誰が座っているかを考えたら、救いがどうしてただ主の憐れみによるのかが、天国への道が、どうして主の憐れみで満ちているかが、きっと見えてくるのです。その憐れみの道となるようにと御子イエス・キリストは来られました。神様が人となられて、私たちの罪を全て負い、罪人がどんなに遠く離れていても、ただキリストの犠牲のゆえに帰れるようにと、キリストが身代りに裁かれ死なれた。ここに父の憐れみがあるのです。神様と人とに罪を犯して歩む私たちに、すべての報いを刈り取らせるのでなく、避けられない裁きと報いは確かにあっても、それでも帰って来れるように、この道を通って帰って来れるようにと、キリストが、死んでなお復活して永遠に生きられる、救いの道となってくださった。死から立ち上がってくださった。だからどのような罪人でも、どんなに無駄な命を生きたとしても、人は立ち上がることができるのです。キリストを、死から立ち上がらせてくださった、全能の父が立ち上がらせてくださる。だから私たちも罪と死から立ち上がり、父のもとに帰ることができるのです。

 

11/3/13朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書15:1-10、エゼキエル書34章11-16節 「涙こらえて必死に探す」

11/3/13朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書15:1-10、エゼキエル書34章11-16節

「涙こらえて必死に探す」

 

一昨日金曜日の午後三時前、長いサイレンが聞こえるので、火事だろうかと思っていましたら、しばらく鳴っている。あ、地震だと思って、すぐにテレビをつけました。しばらくしてだったでしょうか、文字通りすべてを飲み込んでいく津波の映像が流れました。ヘリコプターからのその映像に、次の瞬間、道路にトラックを止めて津波を眺めている運転手らしき人物が映し出されました。私は恐ろしくて、その先を見ることができませんでした。何かの理由があったのかもしれません。でも逃げて欲しかったと、映像を見た全ての人が思ったのではなかったでしょうか。子供たちにも津波の恐ろしさを理解して欲しくて一緒に見ました。怖かったようですが、だからこそ、津波が来たら絶対逃げるがでと親が真剣な思いで伝えたことは、聴いてもらえるのではないかと願っています。いつも金曜日に取り掛かっている説教の準備が手につかんほど心が動揺していましたが、このことと重ねて、神様がどんな思いで私たちに死ぬな、生きよと語りかけておられるか。罪故の滅びから、今すぐに連れ出さないといけないと必死な思いで語りかけておられるのか。今読みましたところのすぐ前で、聴く耳のある者は聴きなさいと、どんな思いでイエス様がおっしゃったのか。その痛みが伝わってくるような思いで御言葉と向き合いました。

聴く耳のある者は聴きなさい。イエス様がそう招かれ、徴税人や罪人が皆、イエス様の話を聞くために近寄ってきました。聞いても聞かんでも別によいというのではなく、聴かないかんと近寄ってきた。その一人一人に、イエス様が深い愛と共に悔い改めの福音を語られ、赦しを語られ、神様の恵みと憐れみの慰めを説かれている場面を、これも想像すると良いと思います。美しいとすら言える場面ではなかったでしょうか。人生が今まさに変わろうとしている場面でもあったでしょうか。

でもそれを見て、不機嫌になる人々もおったのです。神様の憐れみのもとに身を寄せに来た人々を、そのまま愛し受け入れるイエス様の姿が気に入らない。いや、そもそも身を寄せに来たなんて思ってなかったのかもしれません。肌の露出が多いとか、携帯電話をマナーにせえとか、当時の宗教的エリート達も、目を吊り上げて見ておって、なのにまるでそんなのは意に介せんと、よう来た、よう来たと喜んでいるイエス様が気に入らん。じゃあ、この人々の信じている神様のイメージも、やはり目を吊り上げているのでしょうか。悔い改めてから来いと。イエス様の表情や態度、語られる言葉のすべてにおいて、神様ご自身が現われていて、目を吊り上げた私に語られているなんて、いいや、そんなはずはない。だって神様は、私のように考えているはずだと。イエス様は、それに対して、違うと言われ、これが神様だという話をなさるのです。

人間は神様の顔を歪めてしまう。聖書は神様が私たち人をご自身に似せて、神様の形に造られたと告げるのに、人間はその逆をするのです。神様を思うとき、罪に歪んだ自分の形に神をイメージしてしまい、これが神だろうと自己満足する。聖書が偶像礼拝と呼ぶ罪です。罪の根源、The罪と呼んでもよいかもしれません。だから神様の言葉を聴こうとしないのは、だって、それは自分の思っている神と違うことを言っていると思ったら、耳にも入って来にくいからでしょう。自分の思う神の顔をよく見たら、きっと自分に似ているのです。だから不平も言うのでしょうか。不平の正しさを保証する、自分の顔をした神を信じて。

でもその顔が、どんなに自分自分で歪んでいても、イエス様はその顔の中に、いや、だって、そこには神様の形があるやかと、この話を聴いたらわかるろう、だって、あなたがたもきっと捜しに行くろう、わからんはずはきっとないと、主は罪ゆえに歪められた神様の、真実なお顔、憐れみ深いお顔を描かれます。そして問われる。どうして喜ぶかわかるろう。わかりとうないろうか。この喜びに生きとうはないろうか。この喜びに生きて欲しいと、罪人を神様のお顔の前に置かれるのです。

神様は、ご自分の前から失われた人を、見つけ出すまで捜されます。見つけ出すまでです。見つけ出されていますか。もしそうでないなら、いま何よりもハッキリしていることがあります。神様はあなたを捜しておられます。行方不明になっているからです。今も大勢の行方不明者がおられます。家族は必死で捜します。涙こらえて必死になって見つけ出すまで捜されます。何故でしょう。そんなのは理屈ではないでしょう。神様がどうして失われた者、聖書の他の箇所では、滅んだ者とすら訳される失われた者を、もう手遅れかも知れんのに、帰ってはこんかも知れんのに、それでも何で捜されるのか。どうして執拗に捜されるのか。

理屈は言えると思います。今までその何でかを説明する説教を何度か聴いてきたとも思います。この15章は、よく好まれる御言葉です。私の好きな御言葉でもあります。特に一人の罪人が悔い改めて帰ってきたら天には大きな喜びがある。神様の天使たちがうんと喜ぶという御言葉は20年前、恩人からいただいた御言葉です。天使たちがパーティーをして超盛り上がって喜んでいると、そのときは聞いたので、うんとイメージ豊かに覚えました。その日、私はイエス様を信じて受け入れるお祈りをちょっと前にしたと、その人に告げました。私のために祈っていたのを知っていたので、ありがとうというつもりで言ったのですが、その人は涙を流して喜んでくれました。私は正直その涙の意味がわかりませんでした。頭では理解できましたけど、涙も理屈ではないでしょう。そのときにもらった天の喜びの御言葉なのです。

理屈は言えます。価値があるからです。価値があるのに失われていて悲しくて必死で捜したのです。でも一体どんな価値でしょう。世の中には交換価値というのがあります。お金とか。これが、あるいはこの人が私に満足を与えてくれる限りは価値があるとか。例えば、下に落ちてしまった肉団子。あ、もったいないって思うでしょうか。それとも子供が拾おうとしたら、汚いき拾われん、こっちに綺麗なががまだあるきにと新しいのと交換するか。私なら洗って食べますが、でも、もったいないって思うのは、その落ちて失われてしまった、もう汚のうなって、そのままでは食べれんなった、その肉団子が惜しいと思うんでしょう。そのとき他の綺麗なのこそ、むしろどうでもよいと思うほど、心は失われたもので一杯になっていて、惜しい、口惜しいとすら思わんでしょうか。羊だったらどうでしょう。銀貨というのは、貨幣価値で言えば5,000円ほどだそうですが、これは当時の女性が結婚式に持参するために首飾りのようにつなげていたお金ではなかったかという説明もあります。思いがこもったお金なのです。愛着があるという言い方もします。お金であろうと羊であろうと、愛を上から着せちょって、あなたは私の大切な羊だという愛着があるから、失われたとき、その愛も一緒に失われるから痛みを感じる。自分が引き裂かれたような痛みがある。その羊は自分自身だという思い、感情移入とも言えるでしょうか。辛い思いをしゆうだろうと、考えるというよりも感じるのでしょう。もう理屈ではないのです。苦しくて仕方がなくなるのです。もしも失われ行方不明になったのが我が子なら、夜も寝ないで捜さんでしょうか。新しい子供と交換するとか、他にも大勢おるからなんて、そんな愛を失った屁理屈が通るでしょうか。断じて通るはずがないのです。神は愛です。失われてしまった一人一人を見つけ出すまで捜し続けられる。見つけ出されなければならないのは、名もない罪人ではありません。見つけ出されないかんのは、私であってあなたでないといかんのです。それだけ掛け替えのない人として、神様が私たち一人一人を愛されている。その私たちを滅びから救い出すために、失われておっても連れ出すために神様が用意なさったのが、十字架の上でのありえない交換です。人となられた罪なき独り子の神様、イエス・キリストが、失われた私たち全員と十字架の上で交換されて、イエス様が死んだから私たちが赦されて生きるよう、たとえ死んでも生きられるよう、神様が死んで、罪人が生きるよう、わたしが死ぬから、あなたは生きよと、罪を赦して下さった。復活の救いを下さったのです。

だから天使たちも喜ぶのです。それはこの世ですぐになくなる刹那の喜びでは決してない、永遠の大きな喜びです。罪人が復活に生きるから喜ぶのです。キリストの憐れみと恵みによって、罪赦されて永遠に生きるから、天には大きな喜びが湧き上がる。この世のあれこれから自由にされて、天の喜びに生きる自由を恵まれ、見つけられた羊として生きられるのです。今ここに生きていくのです。神様の恵みに救われた神の子として生きるのです。

 

11/3/6朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書14:25-35、創世記22章16-18節 「愛の選択は命の選択」

11/3/6朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書14:25-35、創世記22章16-18節

「愛の選択は命の選択」

 

イエス様は私たちに弟子になって欲しいのです。世界中の人々に弟子になって欲しい。前にも言いましたが、受験の譬えで言えば、神の国への入試というのはイエス様が受けてくださいましたから、入試はなくてイエス様との面接があるだけ。わたしのもとに来ますかと、イエス様に面接で問われて、そのイエス様に、はいと答える。それが洗礼であり、イエス様の弟子になるということでもあります。最近も北朝鮮から亡命を求めてきた人々がおりますが、そのようにイエス様のもとに救いを求めに来た人を門から締め出して、この条件に合格できんと救ってあげんなどと、まさかそういうのではありません。誰でも来なさいと招かれるイエス様です。先の盛大な晩餐の譬えでは、父なる神様から、無理にでも連れてきなさいと言われて、その通りに、多くの人々を父のもとに連れてこられたイエス様が、まるで急に怖い顔になって、そう、来たが、けんどこういう人でないと入れることはできんと厳しい試験官の形相になるというのではありません。

むしろ、そうやってイエス様のもとに来て、洗礼を受けてキリストの弟子となりますと求める者に、そう、それは嬉しい、おめでとう、では弟子としてわたしについてこれから一緒に歩んでいくあなたに、弟子としての心構えを伝授するきねと、そうやって教えている場面として理解すればわかりよいでしょうか。そら私たちとしても教えてもらわないと困ったことになるのです。例えば御言葉を聴いて心打たれて、私も洗礼を受けます、ほら今すぐと、例えば、そういう人が来たとして、慌てて洗礼を授けてしもうて、しばらくして、あの~、洗礼を受けたら教会の一員となって教会に仕えて自分の好きなようにはできんらあて聞いてなかったき、やっぱりなしにしてくださいと言われたら大変なことになるでしょう。亡命はしたいが、あなたの国の法や決まりなど知ったことかという亡命もありえません。辞書で引いたら、亡命の命は戸籍や国籍のことだそうです。身柄とも言えるでしょうか。今までの国籍は亡くして新しい国籍に身を委ねる。この身を、どうぞよろしくお願いいたしますと預けてしまう。イエス様、これからは神の国の国籍に入らせていただきますので、これからの神の国の一員としての生活について、ご指導のほどを、よろしくお願いいたしますと来た一人一人に、そう、あなたはよい選択をした。これがあなたの新しい命だと、神の国の命のあり方を教えている場面がこれだとも言えます。

わたしのもとに来たあなたがたの、命のあり方はこうである。家族や自分自身でさえも、これを一番にしてしまうのは、わたしの弟子としてのあり方ではない。これを憎まないならと直訳で訳されると、まるで、親父が憎いと、憎悪の炎でも燃やさないかんかと思いそうですが、これは聖書によく登場するユダヤの言い回しです。あれかこれか、どっちかを選ぶという表現です。例えばヨセフが結婚相手にマリアを選んだら、ラケルさんへの思いはキッパリ断ち切る。当たり前ですが、ユダヤではそれを、マリアを愛し、ラケルを憎むと言うのです。マリアの気持ちからしたら、わからんこともないかと思います。キッパリ、スパッと断ち切って欲しい。あるいは友情関係が続くとしても、私と他の人との違いは、線の違いをハッキリして欲しいと、そら、誰だって思うでしょう。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの主なる神様を愛しなさいとも言われます。他とは一線を、しかも絶対的な極太のマジックでキュキュっと、私は神様を一番にします、それは家族と比べても別格なのです、私の人生よりも全然別格なのですという唯一無比の心構えがある。実際に命を問われる場面があって、やっぱり死にたくないと自分の命を選んでしまうことはあるでしょう。ペトロがそうでした。そしてイエス様はそのことを知っていました。しかしだからと言って、やき、別にどうでもえいがちやとは言われんのです。むしろイエス様は、自分を捨てなさい。捨てれんところで、その自分も捨てて、わたしについてきなさいと、私たちを背中に負われて、十字架を負われた。私たちへの罪の赦しの確証のもとに、だからついて来なさいと呼ばれるのです。

今の日本では、あれもこれもそれも、全部欲しい、えいろう、だって欲しいがやも、という優柔不断がまかり通っているようにも思います。そういう時代に住んでおったら、イエス様はそう言われるけんど、結局は赦されるがやろうと甘えが生じやすいかもしれません。が、あれもこれもは通用せんとイエス様は忠告をなさいます。でないと破綻したときに、その人もまた悲惨だからです。あれもこれもの関係は破綻します。

ソロモンがそうでした。この人は賢い人です。塔を建てるときの計算とか、他の国と戦うときの武力の計算とか、うんと考えて、それはもううんと考えて言わば全戦全勝の結果を得たほど、賢い人の代表のような人です。が、この愛の選択だけは、いや、けんど通用するろうと考えて無残に破綻しました。それが人間の考えです。そういう考えではだめなのです。イエス様が、よく考えなさいと言われるのは、人間として損得で考えてとか、うまい抜け道はないろうかとか、そういうズル賢い考えでは決してなくって、神様を相手にして、あなたは自分の考えが通用するか、そのことをよく考えなさいと言われるのです。言わばイエス様の恵みに亡命したということがどういうことか、その亡命先の命のあり方は、じゃあ今までと同じでよいのかどうか、それは相手先を考えたら、神様に向き合えばわかるはずでしょうと、きちんと神様に向き合うことを優しく教えておられるのです。こっちもあっちもは通用せん。あなたは誰を一番に選んだのか、もし神様に平行して、あっちもこっちもと愛と忠誠を揺るがせにするのなら、どっちつかずの愛がどうなるか、その結果は考えたらわかるはずだと、自分を選ぶな、あなたの罪を赦すことを選ばれた、あなたの神様を選びなさいと主は言われます。

子供の頃読んだ漫画を思い出しました。話の前後は忘れましたが、主人公の子供が線路のレールが二本並行に重なっている間の部分に、手を突っ込んで抜けなくなっている。必死で抜こうとしているのだけれどもどうしても抜けない。その親か誰か大人がやってきて手伝っても、手が痛いと泣くだけで、何にも進まない。そのうち向こうから汽車がやってきて、必死になって、どうして抜けんのか、子供の手元を見てみると、二つのレールに挟まれた手がグーになっている。それが抜けるか、パーにせえと言うが聞かん。どうしてか。その手に百円玉を握りしめているからです。それを離せ。いや。死ぬぞ。いやー。

イエス様が相手にしておられたのは大人だったと思います。でもその手元をイエス様が見られたときに、グーになっていた大人はおらんでしょうか。握りしめている何かがあって、神の国と自分の欲と並行して走っている線路の間に手が挟まっていて、抜けない。このこう着状態から抜け出して、自由に生きて、また死ぬために、主は、その手を離して、わたしの恵みをつかみなさいと言われるのです。それが自分の十字架を負って、イエス様の後について行くということの意味です。自分の思いや自分の願いは、十字架につけてしまうのです。イエス様が父の救いの御心に従って私たちの救いとなられたように、私たちもまた自分を捨てて父の御心に従って歩む。そうやってキリストの弟子、神の僕となるときに、神様のお役に立つ者となるからです。私たちが祈り願っている、愛する家族や友人、知人の救いのためにも、神様がどうして用いてくださらんでしょうか。主が、あなたがたは地の塩、世の光だと言われたのは、あなたがたは人々を救いに導くために父に仕える神の僕だ、そうだろうと言われたのです。

それはよくよく私たちの知っての通り、自分の力では無理な話です。自分の力。ここに握りしめている自分の手があるとも、あるいは言えるかも知れません。それでも自分を信じてしまう。私はある時から、聖書でも勧められているように、両手を天に広げて祈るようになりました。教団の教会でやると人がびっくりしますからやりませんけど、米国では皆よくやってましたから自然とそうなったとも言えます。けれど、一つのきっかけは、友人が死にかけたときです。何もできない自分の無力さに、主よ、私は何にも持っていませんけれど、私の命をあげてかまいませんから、どうか彼をお救い下さいと空っぽの両手を天に上げて祈ったのが最初だったと思います。心から、父よ、私は何も持っていません。あなたの恵みをください、あなたの僕を憐れんでください、あなたの御心をなさせてくださいと祈るとき、私にはしっくり来ますので、独りで祈るときは、よく自然に手を上げて祈っています。

私たちの持ち物ではだめなのです。何の役にも立たんのです。この世のことに関してなら、少しは役に立つでしょうけど、救いのために役に立たんなら、それが一体何だというのか。その持ち物がもし高ぶりにすらなるのなら、そんなのを握りしめていて、神様に従うことができんのならば、そう、それはもう捨てたらよいと、イエス様は両手を差し出してくださるのです。あなたは代わりにわたしを得るのだと。

それが今からおこる、聖餐式の意味でもあります。空っぽの両手を差し出して、イエス・キリストを頂くのです。何かと交換なんてできません。私たちの持っているものなんて、何の役にも立ちません。だから、イエス様がご自身を父なる神様の前に差し出して、私たちの赦しとなられ、命となって下さったのです。そのイエス様を私たちはいただいて、そして運んでいくのです。イエス・キリストと一体になって、そのようにキリストの弟子として、神様に用いていただくのです。空っぽの手に今からキリストをいただきます。自由にされた手に与えられるキリストの恵みが、私たちを真実に、自由にします。そして自由な弟子たちが、世界に恵みの味付けをしに、キリストに従って旅立つのです。

 

11/2/27朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書14:15-24、イザヤ書55章1-7節 「神様の愛は当たり前か」

11/2/27朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書14:15-24、イザヤ書55章1-7節

「神様の愛は当たり前か」

 

イエス様と昼食を共にしていた客の一人が、さあ、どんな顔で言ったのでしょうか。こう言った。神の国で食事をする人は、何と幸いなことでしょう。あるいは、幸いですな、ぐらいだったかもしれません。この人は、どんな神の国の食事風景を描きながら言ったのでしょうか。すぐ前でイエス様が言われたことを受けてですから、11節で言われた、謙遜な人ばっかりいる食事風景でしょうか。幸いですね。誰も長々と話をしようとしない。そこに牧師はいないんじゃないでしょうか。それよりも食事風景をイメージするときに大切なのは12節からの後半の話でしょう。普段はあまり招かれない、言わば様々な意味での貧しい人々をこそ宴会に招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたたちは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われるとイエス様が言われた。これを聞いた客の一人が、その復活後の光景に思いを馳せながら、ああ、その後に開かれる神の国の晩餐は、なんぼか素晴らしいでしょうねと言ったのでしょうけど、じゃあ、この人はそこにどういう正しい人々が一緒に食事をしていると想像したのか。そして私たちは、どんな食事風景をイメージするでしょうか。

私は最初この御言葉を読んだとき、この人がどんな食事風景を描いたかパッと安易に想像して、ああ、それでイエス様も喜んで、お、わかっちゅうやいか、そうながよ、幸いながよ、けんど、と話を続けられたのかなと思ったのです。が、原文で読むと16節「そこで、イエスは言われた」と訳された「そこで」という言葉が「しかし」という言葉なのです。となると、この人の頭の上にポワポワと浮かんだ食事風景をイエス様が下からチラっと見られて、んーっと胸を痛められ、じゃあこういう譬えをするぜよと、改めて、神様の恵みによる救いとは何か、そのポイントを今度は相当ダイレクトに話し直されたのではないか。神の国で食事をする幸いを思ったこの人も、それが、どうして幸いであるのか、神様の思われる幸いではなく、まるで神様が私たちに願われる幸いへの招きをすり抜け、よけるようにして、正しい人の集まる神の国の食卓に思いを寄せたのではなかったかと思うのです。

言い換えれば、自分の正しさを基準にし、そこに当然この私がいる、私がいて当然の正しい食事風景を描いてしまう。例えば、誰も食べ零さん、牛乳も零さん、とか言いよったら、そして、お父さんも怒らんと言い返されそうですが、そういう自分なりの正しさを基準にする食卓は、神の国の食卓ではありえないはずです。そこは仮に天国とは呼びえても神様が恵みと正義によって支配されている神様の国ではありえません。じゃあ神様の正しさが基準となった神様の国の食卓に連なれる人って、どういう正しい人々でしょう。人に自分の正しさを押し付けて自惚れるような私はそこに入れるでしょうか。では、イエス様がそこにカウントされた貧しい人々はおるでしょうか。神の国の幸いを思ったこの人は、そこに貧しい人々が無償で招かれている恵み深い神様の国に心寄せて、ああ、幸いだと思ったのか。それとも、そういう人々を招く正しい人々が連なる食卓を、正しい幸いな食卓と描いたのでしょうか。

かなり率直に問い掛けますが、皆さんの想像される神の国の食卓に、いる人は誰でしょう。そしていない人は誰でしょう。いる理由、いない理由は何でしょう。そこにイエス様がカウントされた貧しい人々はおられるでしょうか。お金持ちはどうでしょう。ポンと畑を買う人や、牛を5組ということは、それだけ耕すべき相当広い畑を持っている人です。イエス様は分かり易い対比をなさっているのですけど、じゃあ私たちはどっち側に自分を数えるでしょうか。世界水準からしたら相当お金もちであっても、いや、私はそうではないと思わないでしょうか。じゃあ、貧しい人でしょうか。日本人は、自分を普通の人として数えたいように思います。そして普通だから天国にも行けるというイメージが多いようにも思うのです。案外キリスト者であっても、私は普通の罪人で、普通の信仰で、普通の教会生活でという普通信仰が多いというのが、日本のキリスト者人口1%の壁を越えられない理由かもしれません。どうして普通がいかんのでしょうか。普通とは、人の目だからです。右を見て、左を見て、前を見て、後ろを見て、ああ、普通だと思うのが普通です。でも神の国に普通はありません。神の国には存在しない基準です。神の国では、右には右の隣人がいます。左には左の隣人がいる。そして私も私の隣人も、一人一人が、神様の前に立ち神様に対して責任を問われる人間として、一切の比べあいのないのが神の国です。神様だけが私たちを評価され、その神様の裁きだけを重んじて人の評価なぞしませんから普通というのもありません。またその逆に、自己主張する人もおらんのです。する必要がありません。誰に自分を認めさせようと言うのでしょう。それは普通も同じでしょう。結局、人からの承認を得たい。そして神様の招きを聞き逃す、いや、意図的に拒みさえしてしまうのです。

どうして神様の招きを拒んでしまうのでしょう。豊かだからでしょうか。特に必要を感じないほどの豊かさを実感しているから、別にいつ見に行ったち逃げやせん畑や牛を見に行かないかんからと、言い訳にならない理由をあげて、要するに、間に合っていますと言うのでしょうか。あるいは妻を迎えたばかりの人は、特にお金持ちだとは言われていません。むしろ普通の人を代表してイエス様も譬えに登場させたように思えます。言い訳も、だって新妻と一緒にいたいと思うのは当然でしょうと言わんばかりに、先のお金持ち二人と比べてみても失礼させてくださいと言いもせんぐらいです。ま、わからない話ではありませんので、当然といえば当然でしょうけど、そこがイエス様の譬えのポイントでもあるのです。私たちは何を自分の当然とするのか。例えば日本人であれば、まわりと比べて普通であること、普通とされていることを自分の当然とすることが当然とされ、正しいとすらされている。違うでしょうか。

でもその当然が神様にも通用すると思うのは間違いです。神様に罪人の当然は通用しません。救われて神様の食卓に連なれる人々は幸いだという話をしているのに、何故だかそこで神様の招きが消滅をして、自分の話になる人間に、主は問われます。あなたは神様の招きを自分のこととして聴いているだろうか。それとも神様の恵みの前にへりくだる救いを聴きながら、神様の招きが無償の招きであることに、ああ、そうだ、そうだと賛同さえしながら、しかしその神様の招きに、あなたが、はいと答えてないならば、これはまあ拒んだちかまんもんだろうと考えているのではないだろうか。神様の招きと、人の招きと、同じように考えてはいないかと、イエス様はポイントをハッキリさせられるのです。

説教題に、神様の愛は当たり前か、とつけました。それはもしかして神様に招かれることを当然のことだと思っているから、拒んでしまうのではないだろうかと思ったからです。既にこの招きに応えて洗礼を受けたキリスト者は別にしてということでもないでしょう。洗礼は受けたけど、畑を買ったので教会に行けないとか、妻を迎えたのでしばらく教会に行けないとか、ありえない話でしょうか。神様の招きを、神様の招きとして受け止めているのか。それともそこでも人を見て、あるいは神様を人と同様の態度で扱いうると思ってしまい、実は神様を相手にしていないから、神様を拒んでしまうのではないか。神様の愛は当たり前かという問に対して、皆さんはどう答えられるでしょう。誰に対して当たり前かということになると思うのです。神は愛ですという言葉が染み付いていたら、それはその名を愛と呼ばれる神様に対して、神様が愛であるというのは当たり前だと、そう思うかもしれません。それは正しい答えでもあるでしょう。ではその神様から私が愛されるということに対して私は、それもまた当然のことだと、平然と言えるのでしょうか。それは本当に当然でしょうか。神様の愛に従って、隣人を愛し、神様を愛して当然の私が、愛されるのは当然だと思っても、その神様に憮然と逆らい反抗して、隣人をも愛さない結果として、愛されていながらも裁きを受ける。それが当然ではないのでしょうか。その私のためにキリストが身を投げ出してくださったのは当然でしょうか。そのキリストを拒んで、私は私で自分を救うと高ぶって、それでも私の罪が赦されるのは当然でしょうか。罪が赦されるということが、一体、どのようにして当然と言い得るでしょうか。私たちがここで相手にしているのが神様であるとはどういうことか。それは、私たちが人間を相手にしているのではないということです。イエス様が言われた、誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるとは、私たちが神様を相手にしているときのことだということです。一般的処世訓ではありません。神様の前で生きることを知る人だけが、隣人と正しく生きることをも知るのです。

その生き方を、ここで最もわかりやすく表しているのが、実はここに登場する主人の僕なのです。彼は黙々と主人の願いを行います。主人の思いの内を知っていて、自分はどうでもよいのです。いや、主人の思いに心からアーメンと思い、そして従っているこの僕こそ、父の救いの御心にひたすらお従いなさって十字架に向かわれるイエス様なのです。

天の父は盛大な宴会を用意しておられます。限りなく大勢の人々のための盛大な神の国の晩餐です。ではその晩餐のまかないを誰が払うか。そんなの神様が払うのが当然だという態度があるなら、神様に低くされるでしょう。しかし、キリストはその私たちよりも低くされ、陰府にまで下られるほど低くなられて、罪の赦しという多大なる犠牲、大いなる有り余るほどの犠牲を払われたうえで、さあ、誰でもここに来なさい、無償で、何も持たずに、恵みを受けに、神様の恵みの前にへりくだり、高ぶりを捨てて悔い改めて、罪の赦しと生まれ変わりの洗礼を受けて、神の国の食卓につきなさいと、全員を招いて下さったのです。

この大いなる招きにお応えするとき、私たちも僕になるのです。普通なんてどうでもよいことです。自己主張も僕には無用です。神様を相手にして、神様の僕として生きていく。それが神様の招きを伝えて生きていく伝道という生き方です。皆ここに連れてきなさいと願われる主に、ただただアーメンとお応えし、人々を招く、神様の僕となるのです。

 

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11/2/20朝礼拝説教@高知東教会 ルカによる福音書14:1-14、申命記16章11-14節 「無視される人を招く主」

11/2/20朝礼拝説教@高知東教会

ルカによる福音書14:1-14、申命記16章11-14節

「無視される人を招く主」

 

この一連の話をされたイエス様のお顔は、どんな表情をされていたと皆さん思われるでしょうか。これを昔の話だとするならば、そんなのはどうだって良いことかもしれません。けれど今生きておられて、聖霊様によって私たちと共におられるイエス様が、この御言葉によって私たちに語りかけて下さっている以上、やはりそのイエス様の表情も、無視できるものではないだろうと思います。私たちが日々、どんなイエス様のお顔を仰いでいるかとも深く関わりがあるのです。以前ある画家が自分の描くイエスの顔はどれも険しいと言われるが、それはイエスがいつも生きるか死ぬかの厳しい戦いをしていたと思うからキツイ目つきになるのだと言ったコメントを読んで、なるほどと思いつつも違和感を覚えたことがあります。今日の御言葉はどうでしょうか。明らかに人間の罪と対決している場面でもあります。確かに闘っておられる場面です。でも救い主はそこでどういう闘い方をなさったのか。目を吊り上げての戦いであったか。そうではなかったように思うのです。むしろ、そういう目をした人々に囲まれた中で、イエス様は憐れみの勝利を信じて闘われたのではなかったか。私たちに向かって、わたしの弟子になりたい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさいと言われたイエス様の目は、けれど十字架を負う厳しさを映すというよりも、むしろ悲しみを背負ってはなかったかと思うのです。

イエス様を預言する旧約聖書の中でも、おそらく最も有名なキリスト預言の一つ、イザヤ書53章に、こういう御言葉があります。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。口語訳では、悲しみの人で、病を知っていたと訳されます。悲しみの人だった。私の愛する御言葉の一つです。無論、かと言ってイエス様が46時中暗い顔をしていたとは思いませんし、今日の御言葉でも、特に婚宴の席の譬えを話されたとき、ユーモアたっぷりにジェスチュアも交えて、笑顔で語られたろうと私は想像します。明るい方です。希望を分け与えてくれるくらいに。そして、そういう明るさは、悲しみを知っている明るさだと思うのです。こう言っても良いでしょうか。その心には、悲しみの穴が開いていると。心に開く悲しみの穴。少し、このイメージで話を続けますので、お付き合い願いたいと思います。

私たちが言葉を聞くとき、ちょうど耳に穴が開いていて、それで言葉を聞き取れるように、心にも穴が開いているのでなかったら、本当に聞くべき言葉、あるいは声は、聴き取れないのではないかと思うのです。神様が私に与えて下さった出会いを振り返ってみても、私に良き感化を与えてくれた人々は、皆心に穴を持っておられたように思います。穴が開いているというのは、何か欠けていて、完全ではない、不完全な印象もまたあるでしょうか。もし洋服を買ったのに穴が開いていたら、返品して穴が開いてないのに替えてもらうのが当然でしょう。もし胃に穴が開いていたら大変なことです。穴が開くまでいかずとも、胃が弱いと書いて胃弱という言葉もあります。どうせ胃を持つなら、弱くない強い胃を持っているほうが、私も好きなコーヒーが飲めますし、胃がキリキリと痛んで苦しむということもない。同様に言うなら、心に穴が開いているという状態も、痛い痛くないで状態の良し悪しを判断するなら、穴が開いていて、痛み、悲しみがある心というのは、少なくとも快い状態とは言えません。決して快くはないのです。強いか弱いかで言うのなら、穴の開いた心は弱い。痛みがある。ないわけがありません。イエス様は多くの痛みを負い、その心には多くの、あるいは大きな穴が開いていて病を知っておられた。私たちが罪を犯すたび、それを見るたび、心痛められ、ジュッと穴が開く。何故か。愛する者の罪の姿を見て心を痛めるからです。わからん人はおらんでしょう。例えば小さな子供であろうと目が吊り上がるほどに自分の正しさに執着している狂気じみた姿を見たら、痛みを覚える。その愛する口から悪口を聞く。あるいはもっと酷い罪の現場を見る。私たちでさえ、ときに死にたい程の痛みをそこで覚えるのであるならば、神様が一体どうして未だ、この罪に狂い病んだ世界と共に心中しないでいられるのか。それはただひとえに、人となられた神様、イエス・キリストがその私たちの罪を背負われ、私たちを抱きしめ抱え込むようにして、あなたもここで死んだことにしてよいからと、十字架で死んでくださり、そして三日目に、わたしはあなたと共に復活するから、あなたはわたしと新しくやり直してよいと墓から甦られたからに他なりません。それがイエス・キリストの救い、死んで新しくやり直してよい、神の子として永遠に生まれ変われという救いです。

そのイエス様が私たちに求められる生き方とは、じゃあ何か。あなたの心に開いているその穴から、あなたも悲しみの声を聴けるのだから、その声を無視しないで、わたしの弟子として神様の憐れみに生きなさいという生き方です。その声は、しかし、ときに声なき声と表現されるように、いつも耳に聞こえるわけではないでしょう。今日の御言葉でも、悲しみの声が、言葉として記されてはないのです。あるいは特に男性はこういう場合、はっきり口で言わんき悪い等と自己弁護するかもしれません。が、だから神様も何もおっしゃってない、とは言えんでしょう。むしろイエス様は別のところ、マタイの25章で「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」また「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われます。なら、こうも言えるでしょう。心の穴から聴こえる声、また聴くべき言葉は、私たちの悲しみを自らの悲しみとして負って下さったキリストご自身の言葉でもある。キリストご自身が、この世で無視されている人々を代弁して、今日の御言葉でも既に悲しみの言葉を語っておられる。そして、この言葉を、あなたがたも共に担い、自分自分という高ぶりを捨てて、神様の憐れみに生きなさいと、私たちを招かれているのです。

でないと、すぐに心が塞がってしまわんでしょうか。悲しみの穴が塞がると、人間は塞がった心を自分の王国にしてしまい、心の使い方だけでなく、やがて時間やお金の使い方まで自分中心になってしまう。そしたら生き方自体が塞がるのです。神様を礼拝することさえ、人間は自分中心にそれをしてしまえるということは、今日の御言葉でも知らされる人間の罪の深みです。この人たちはおそらくイエス様と一緒に礼拝をして、イエス様の説教を聴いたのです。まさしく神の言葉をその礼拝で聴いて、それで何か変わったのでしょうか。イエス様は礼拝で何を求めて語られたでしょうか。いきなり聖人君子になってアッシジのフランチェスコの如く全財産を捨てて修道僧になる、そういうのはイエス様もお求めではないと思いますし、仮にそのような大変化さえ人は高ぶりの為にできてしまう。主が求めておられるのは、穴が開くことでしょう。心が砕かれるという言い方のほうが聖書で馴染みのある表現です。私の間違いだったと自分の罪を認める。いやそれ以上に、神様に対する悲しみを覚える。神様を傷つけてきたことへの愛の痛みを覚える。それがなかったら、単なる自己愛の痛みであって、傷ついたプライドで終始することだってありえます。手負いの獣と言うか、私みたいにウジウジしやすい人間は、そうなると自分でも扱い難くて自分に腹さえ立ちますけれど、そんな私をイエス様が、どうやって扱ってくださるかと言うと、誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められるから、幸生、へりくだりなさい、せっかく心に穴が開いたがやったら、その心を低いところに置きなさい。その心には恵みが注がれる。恵みの前にへりくだれ、幸生へりくだれ、幸生と呼んで下さる。このイエス様の招きがあればこそ、そして、その招きに、十字架で死んで下さった私の造り主が、命をかけて、本気で心痛めて、手にも足にもわき腹にも大きな穴を開けてくださって、この穴にかけてあなたに言う、わたしはあなたを愛していると、憐れみを注いでくださっておればこそ、まったくただキリストの憐れみの大きさゆえに、罪人は、自分を捨てて神様のもとに帰れるのです。すぐに塞がってしまう穴であればこそ、キリストが復活された後でなお、その穴を残してくださった、いや、それは残らなくてはならない穴であったとすら、言えるのではないかと思うのです。

お返しができない人を招きなさいって、でもそれって本当に私のことだと思わんでしょうか。無論、何にもできんというわけではないでしょう。ここで言われている人々だって、感謝というお返しはできたでしょうし、それこそ何よりのお返しだと思うのです。私は伝道者とされて、10年目を迎えます。前よりはちょっとましにお返しができるようになったでしょうか。ともするとそう思っていることもあるのではないかと思います。そろそろ年配の信仰の先輩方から先生と呼ばれるのに慣れてもきたかもしれません。でもイエス様から頂いてないもので、私が何か自分の実力でなしえて、神様にお返しできたことなど、たったの一つでもあるだろうか。むしろ神様から憐れまれて、あなたは罪故に滅びずに、生きてよい、生きて欲しい、そして恵みを受けて、キリストに結ばれてキリストの体の一枝として、その業を行って生きて欲しいと、恵みを受けてきた。じゃあその恵みを無駄にしてはこなかったかと問われたら、そして事実私たちがやがてイエス様の前に全員集合させられて立つときに、幸生、あなたはちっとでも皆の前で面目を施すことになると思うかと問われたら、ファリサイ派の人々と同じように、これに対して答えることができないのではないか。でもそれが、打ち砕かれるということでしょう。へりくだる恵みをも神様から与えられるということでしょう。だから、主に感謝することができるのです。こんな私をあきらめないで御言葉を下さり、高ぶりを打ち砕いてくださったうえで、わたしの弟子となりなさい、わたしについてきなさいと、穴の開いた御手を差し伸べ続けて下さっている。そのイエス様に、主よ、私があなたの十字架の死に何かお返しするなんてできませんけれど、私の全てがあなたのものですと、感謝して主を礼拝することができるのです。塞がる心に憐れみの穴を穿たれる、十字架の神様の、恵みに生きることができるのです。